2025/6/5
良い天気。
異なる文脈が交じり合う場
コンテキスト・クロスロード / 着想の喫煙所 / 待合所 / メルティングポッド
デイリーページは内容的なコンテキストが入り乱れる
それぞれの人のデイリーページを読む、という行為はコンテキストが入り乱れる
内容的に整理されていないものを並べるために日付というキーを使う
おめでとさん!
整理していこう。
自然とそうなっていったのか、あらかじめ設定してたのかはわからない。
ZK IIはこれを大きく逸脱した構造をしており、主要な11のテーマブロック(1 組織論、2 機能論、3 決定論、4 オフィス、5 形式・形式秩序、6 主権・国家、7 個別用語・単一問題、8 経済、9 アドホックノート、10 アーカイック社会、11 先進文化)のみで1000~9000ノートを構成しています。ここでも、その構造は科学的な体系化の結果ではなく、ルーマンの研究関心の歴史的産物である
もしあらかじめすべてを設定していたのならば、「その他」にあたる アドホックノートがこんな中途半端な場所にくることはない。「研究関心の歴史的産物」ともあるから、あらかじめ設定したわけでもない。「自然とそうなった」という表現ではなく、彼の研究の歩みに合わせて番号が与えられた、ということだろう。
最初に作ったカードは組織論で、それにつなげていったが、明らかにこれは機能論だなと文脈を切り分けた法がよいと感じたもの(私たちが文章をかいているときにパラグラフを変えた方がいいと感じるのに似たもの)が出てきたら、そこではじめて新しい大番号を設定した。
で、ルーマンはこのZK IIの前にも、知識学習のための勉強をしており、ZK IIを作りはじめた段階で大番号の見通しのようなものはある程度持っていたと思われる。で、一通り作った後に、まったく新しい番号が必要になり、10 や11 が新しく創設された、とみるのが自然そう。
もう一つ重要な点。
約300枚の小さな、ラベルのないセクションがあり、それぞれのメモの右上に「VS」と短い数字の並びが付けられています。これらのメモには、新しい理論の基礎となる概念が記されており、おそらく1990年代初頭のルマンの最後のシステム理論に関する講義の準備中に作成されたものと思われます。
まったく新しいものを準備するときにラベルのないセクションを使っていた、ということ。ルーマンが書き残したものがすべてナンバリングのカードセットに収納されていたわけではない、という点。これも押さえておきたい。
で、それに倣うとする。例えば、1.知的生産の技術とする。
もちろんそうしてもいい。一方で、まずカードから始めるならば、自分が書き残したもの(すでに書いたものから考える)。最初に体系を意識してはいけない。自分が考えたものから考える。Cosenseの日ごとノートをベースに考えるならば、Zettelkastenの番号、あるいはそのデジタル運用の話題がそこになるだろう。その話題からカード化的抽出を行い、最初の番号を与える。次に関連する話題を考えたら、それもまたカード化して、続く番号を与える。続きならば数字を増やす、詳細ならアルファベットで分岐する、というように。
で、仮にその次に教師の仕事について考えたら、そこからカード化を生成し、おそらくは新しい大番号を与えることになる。
というよりに、先に大分類を意識するのではない、自分が日々何を考えているのかの足跡で番号を降っていく。という工程をとることになる。
書かれたカードをIDを確認したり、目当てのカードを探すときに目に入る。
これがいいのかもしれない。
まさにそう。またタイトルが内容の概要になっているので、タイトルをぱらぱらと見返すだけで、議論の流れを思い出すことができる。
もう一つ、そうやってカードを目にしていると、それが数字付きであれば、「あの話題は4番台だな」のような記憶が形成される。頭の中に位置が与えられる。脳内でてんでばらばらに展開していた「考え」というものが、「あの場所」という感覚にまとまっていく。
人の記憶と、(位置を持った)場所の関係は深い
考えているテーマが3個くらいならば、位置を持たなくても区別できるが、たくさんのことを考えている場合は、それが重要になる。
ページの冒頭に、
2.[リンク]
という風に記述する。
面白いアイデアだが、こうするとinfoboxなどでタイトルでソートしたときに、意図する順番に並ばない、という問題がある。同様に関連ページでのタイトル順も機能しなくなる。あくまですべて手動だのみ、ということに。
あとページの本文に前後のページのリンクを入れるのは、「間」に新しいカードを挿入するたびにリンクを書き換える作業が発生するのでわりと難しいように思う。むしろ「間」に入れずに、どんどん後に追加していく方式ならばうまくいくと思う。
まとめると、Cosenseにおいて接頭辞として文脈番号を付与することは、
自分の脳内にその話題の位置を割り当てる効果
タイトルのソートの力を発揮させる効果
の二つがある。それ以外のことはすべて単純なリンクで対応できると思われる。
ルーマンは規則に従ってカードに番号をふっていっていた。カードがたくさん溜まった後に、ふと1.5a1のzettelを見返したとする。で、この内容を深めたカードを新たに書いたとして、それにふる番号は何になるのか?をルーマンはどう把握してたんやろう?
今まで何も書いてなければ1.5a1aになる。何か書いたものがあれば、1.5a1bになる。
それをどうやって判断してたのか?
自分が疑問を勘違いしているのかもしれないが、カードはカード箱に「順番」に並んでいるのだから、目に留まったカードを起点としてぱらぱらとカードをくっていけばどんな番号があるのかはわかるのではないか?(おそらくその動作でまた、自分が何を書いていたのかを思い出すことも発生するに違いない)。
というか、カード箱に入っているので、「1.5a1」だけを見るなんてそもそも難しい。僕たちが綴じノートを使うときと同じように、常に前後のカードが目に入っていたはず。
カード法ではなく、カード箱(slip-box)とルーマンが読んでいるのは個別のカードではなく、カード箱の全体が重要だからだろう。ルーマンは常に「カード箱の中で考えていた」。
この点は、梅棹忠夫のカード法と大きく異なっている。
とりあえず、ルーマンのカード箱に新しいカードを挿入することは慎重を要する作業なのだ、ということは記憶しておきたい。僕たちがいうメモを文脈付けているわけではない。むしろ、自分がこれから書く論文の「骨子」に新しい骨をつぎ足す行為なのだ。だから、新しいカードを書くときは前後のカードもよく読んでいただろう。
だから「生成AIでZettelkastenがラクチン!」みたいな話はすべて戯言と受け取っておいた方がいい。少なくとも、この手法は苦労して(つまり知的な労働を大量に発生させて)行うからこそ意義があるもなのだ。
また、ルーマンはカードの連鎖が深みにはまっていると議論の流れがおいにくくなるので、それをフォローするために議論の流れを追いかけるカードを別途作っていたとも言われている。そのカードでは必要なカード番号が列挙されている。
そのような複数の手段があったのだろう。
少なくともCosenseでZettelkastenのようなことをやろうとしたら、最低2つのウィンドウが必要だろう。
片方に自分の考えのナンバリングリストがあり、もう片方に今自分が書いているカードがある。
何かしらのテーゼを描き終えたら、ナンバリングリストを見ながら、そのテーゼが自分の考えのどこに組み込めるのかを考えて、番号を与える。
その後、ナンバリングリストの方にもそのページへのリンクを加える。
Obsidianのdataviewならば、ナンバリングつきのタイトルだけでリストに追加できるという点では省力的である。
Cosenseでinfoboxを使うには、何かしらカードにリンクを与える必要がある。「1.知的生産の技術」台のカードなら、そのページへのリンクを。
Indexカードを開かないといけないのが多少面倒
それが選ぶだけが可能になれば面白い
これなかなか難しい問題で、手間の点では間違いなく便利だが、かつてのEvernoteの「それっぽいものをそれっぽいノートブックに放り込んでおしまい」という事態を引き寄せそうで怖さがある。
また実体があるページへのテキストでの追記なので、「操作」できるから、ノートブック放り込み放置、という事態は多少抑制されるかもしれない。たとえば重要そうなものを上にあげたり、メモを追記したりということはやりやすい。
ひとまずページメニューに追加した
テキストを選択したときに出てくるポップアップメニューの方がいいか。
いちいち新しいウィンドウで開かれるので、面倒感はある。
ルーマンの方法、梅棹の方法、decimalのそれぞれについて考えながら、それとは違った方法を生み出すこと
重要なのは、「自分は何を達成したいのか」ということ。
少なくとも一つ言えるのは、デイリーページからページを起こすことで、必ずどこかのページとリンクしているという関係はつくれても、それだけでは足りないということ。少なくとも「考えを育てる」という目的では不十分。
集めておき、それら全体を見ながら、また考えを進めていく、というもの。
ルーマンのように議論の組み立てとナンバリングを呼応させるのも一つの思考の進め方だがそれだけが方法ではない。
何度も書いているが大切なのは、「自分が考えたこと」を集めて、そこからまた考えを発展させていくこと。
私たちは日常的にいろいろなことを思いつき、考えている。しかし、それらは断片的に浮遊してまとまりがない。そこから一歩先に考えを進めるためには、それらを「集める」ことが必要で、しかし集めたからといっていいわけではなく、「集めてから考える」ということをするために「集める」ということをする、という目的を忘れないようにしておくこと。
ちなみに梅棹は「分類するな、配列せよ」と述べていて、そのあとに「機械的に配列や」と添えている。この機械的な配列というのが何を意味しているのかはわからないが、少なくともルーマンのようなカードで議論の流れを組み立てるというイメージはなく、もっと単純な時系列(カードを作った順番)のようなものだったと推測できる。 議論の流れを組み立てるイメージはむしろこざね法が近いか。
「ボトムアップ思考」という言葉が否定的な文脈で使われているのをはじめて見たかもしれない。
何をボトムアップ思考と呼ぶのかは、人によって違っている
自然と「与えられた情報を整理し結論を後に述べる」ボトムアップ型の癖が形成される
仮にこれをボトムアップと呼ぶならば、非創発型ボトムアップと呼べるだろう。
仮説だが、トップダウン思考の人は「トップダウン思考が正しい」というトップダウンを改訂できないのではないか。
セルフマネジメントの場合は、できるだけ手間無く情報を管理したい(手間最小化則)。知的生産活動の場合は、十分な手間を有効に使うことを意識したい。この二つがまざると手法の検討に混乱が生じる。 ★WorkFlowyでZettelkastenをする場合は、「タイトル+本文」をアウトラインで表現しない。
https://gyazo.com/8f59615320fe3f15221615540e9e2765
そうではなく、「タイトル+本文」を行とそのnoteで表現する。
こうすることで、際限なく深まる階層と、議論の縦の流れの二つを表現できる。
Cosenseを使っていなければ、この発想は生まれなかっただろう。
というかいろいろな人がZettelkasten周りの試行錯誤をしていなければ、こういうことを考えようという動機づけすら持たなかったように思う。GKD(グループ・ナレッジ・デベロップメント)だ。