2025/5/12
天気はやや悪い
本屋さんに行きたい
今日作ったページ
〜〜〜朝巡回〜〜〜
@rashita2: RT @h_okumura: 振り子の等時性「生徒諸君はこれまでに学んできた「周期は振れ角によって変化しない」という内容が頭の中を支配しており、目の前の実験事実は間違っていて、先生の言っていたことが正しいと考えているのです」 何を「正しい」とするのか。
科学が大好きだという新入生でも、物事を科学的に捉え、考えられる生徒はほとんどいないそうです。科学的に捉えるとはどういうことで、どのような姿勢で向き合えば良いのでしょうか。
「科学的に考える」とはどういうことか?
『いかにして解法を思いつくのか「高校数学」上 (ブルーバックス B 2292)』
解法(とき方、問題解決)のパターンを列挙すること
「考え方」という多様なものを、パターンの形で整理する(モデル化する)こと
仕事上のミスが列挙されている
そうなると、ひとはそれぞれ自分のシステムを持っています。
これがシステム論的な世界の捉え方
個人(インディヴィジュアル)という言い方は、何か固有の点が存在している印象を受ける。しかし、人間存在はシステム的である。
投票する、購買する、消費するというアクションの結果だけを見たら、それを行う主体はたしかに個人であり、そうした分析において個人を個の点と捉える見方は有用だろうが、生物学的・社会学的に見れば捨象されているものがかなりある。
人間はシステムである(物理学的に言えば、エントロピーの増加に抗うためのシステムである)。それはいくらか閉じた系でありつつも、外部と接続する「窓口」を持っている。
窓口は、counter、Point of Contact、そして、window.→マルチウィンドウの思想(というよりも、ウィンドウという思想を先に考える必要がある) システムは内部に「仕組み」を持っているので、外部から直接変更することはできない。外部からの働きかけで、変化の作用が「内部」で起きることを期待するしかない。それは他者についても自分についても同じ。
身体システムとしての全体の「自分」は、たかだか表層意識の「自分」では直接制御することはできない。だから、何かを思っただけで自分の行動がかえられるなんていうことはない。自分を変えるのはすごく難しい。
他人を尊重するということは、他人のシステムを尊重するということだ。
罪を憎んで人を憎まず、というのはシステムの駆動に目を向けるということだ。
システムで捉えるということは能動と受動の両方を捉えること(つまり中動態的な視点になる)
人の振る舞いを、場と人の組み合わせで見るのもシステム的視点だ。
おそらく、こうした見方はナチュラルなものではない?
いや、そんなこともないか。
ある文化に生まれ育ったものにとって、自然な見方ではない("個人"をまず先に考える文化)
神話が機能していたような文化では、もっとシステム的な見方が一般的だった可能性もある。
少なくとも、こうした視点をとれば、他人を即座に思い通りに動かすのはかなり難しいと理解できるだろう。(それこそ暴力を用いるしかない。痛みは脳内のニューロン回路をつよく動かすから、たしかに行動は変えられるだろうが、それ以外のものも変わってしまう)
好ましい「入力」をシステムに与え、その結果を気長に待つしかない。
自分を変える場合でも同様。直接するのではなく、好ましい行動が少しでも増えるように環境を整える。気長に待つ。意識としての「自分」にできるのは、好ましい方向に向けて「方向づける」こと。その姿勢は、「耕す」(カルティベイト)や「育てる」とつながる。
(約35分)
Reader’s Notebook と Commonplace Book の比較
末尾
One of my personal interests has always been whether learners are taught and coached on their efforts to externalize learning experiences. As a college prof interested in the hows and whys of taking notes, I observed that so many students just kind of wrote stuff down without previous formal discussions concerning specific tactics and explanations of why specific tactics were being promoted. I wonder if the template-oriented approach of the Reader’s Notebook with the common practice of sharing with classmates and the teacher might represent a way to develop insights and skills related to taking notes.
こうすると、ノートを開かなくても、棚からちょっと引き出して後ろを見るだけで何が書いてあるノートなのかがわかります。
これは賢い。
金田一蓮十郎の新連載「君は世界の中心です」
〜〜〜観察メモ〜〜〜
手書きについて
知的生産の全体において、どこかで手書きは必要になる(キータイプだけでは成り立たない)のは間違いないとして、どこでどう必要になるか
まず手元にそれしかないときのメモツール
あと図を併用しながら考えを整理する(頭のもやもやを整える)
この二つはすぐに挙げられる。
あえてペースダウンして考えるときにも有効だが、どういうときにそれが必要か
あと知的生産以外で、趣味としての手書きというのもある。これは単に「ペンで書きたいから、書く」という欲求を満たすも行為。
すごく縦長のメモツール(OBTF的なもの)で基本的には時系列にメモしていくのだが、疑問については上部にまとめて表示する、というのはどうか。つまり、日ごとメモ+考え事ノートを単一の場所で扱う。 名前空間
たとえばこのプロジェクト内でLIFE Indexというページを作ったとする。すると、このタイトルは二つの「意味」を持ちうる
1. 概念=固有名として存在し、その内容を説明・解説するためのページ(定義ページ)
2. 「倉下忠憲のLIFE Index」という表記が縮められたものとして存在するページ。実際に倉下忠憲のLIFE Indexとして使われるページ。
wiki的なページを作成している場合、この二つが名前空間で交差してしまう。
同様のことが考え事ノートのようなページでも言える。定義を説明するページと、実際のそのページのどちらにもこの名前が使える。
「自分の情報しか書かない」情報空間では、こうした点は気にする必要がない。あらゆるページが、前提として「倉下忠憲の〜〜」であるから。それはパソコンのフォルダシステムにおいて、特定のフォルダに置かれたものは名前を短くできるというのと同じ。
たとえば、プロジェクトAフォルダに置かれたchapter01というファイルは、prooject_A_chapter01.txtと名づけなくてもよい。chapter01.txtとすれば、実質的にprooject_A/chapter01.txtとなりOS上では、他のchapter01.txtという「名前」のファイルと区別される。
名前空間を意識した名づけ=情報デザインがそこでは行われている。
たとえば、定義のページであれば、それをそのまま他の人のプロジェクトにコピペしても成立する。しかし、〜〜として使われているページの場合は成立しない。一方で、「倉下忠憲のLIFE Index」というタイトルのページであれば、コピペしても成立する。
自分だけの自分の情報しか扱わないノートツールを使っているときはこういうことは考えないで済んでいた。一方でwiki的な要素を含む場合は、少し検討する必要がある。
これはタグの名づけでも同じことが言える。Cosenseではハッシュタグ=リンクなわけだから。
買った
https://gyazo.com/420b44b6c7f17ec6fb65adc6e61cc59f
メモツールのテスト
できればカードっぽく見せたい
https://gyazo.com/9148ef9b15fc5023761ba68accf59f65
妻がご近所さんから金魚をもらってきた
https://gyazo.com/c8a644b5a9829736f2267fbc530919d0
劇的に人生を変えるのではなく、漸進的に変えたい所存。
改善したければ、とにかく測れ(注意を向けよ)
(倉下にとっての)読書メモは、本をゆっくり読む手助けになればデジタルでもアナログでもどちらでもいい