2025/4/14
本日は月曜日(★)
本日は『ライティング教育の可能性』の発売日
『完全図解版 プリズナートレーニング』をぱらぱら読む
https://gyazo.com/4e94619ca05c1f7ef8c5112e1147c2ee
Obsidianではやっぱり階層をつけてしまったから、メモ間に格差があった
やはりファイル・エクスプローラーの存在が大きいような気がする
階層構造で整理したいという欲求を、ファイル・エクスプローラーの表示は刺激してしまう
家の中は散らかってても、人目に触れる庭は最低限片付けなきゃな、って思うし
まさに。
ここに来てくれる人たちの需要を考えたら、英語教育ネタは別のところに書いたほうがいいとも思うけど…
むしろ読みたい。
えむおー.iconはロギング生活術として、今からやることをデイリーノートに書いて行動を促すことがある。今日の方法では「これからやろうとすること」を書きにくい。 ロギングには、以下の三つの側面がある
行動の起こすことを補助する
行動の進行を補助する
行動した結果の振り返りを補助する
どれを重視するのかは実行者次第
その代わり専門書をパラパラ斜め読みしながら、気になる点をCosenseのカードに書き出していき、ウェブサイトの情報を付け加えるようにして記載を充実させたら、けっこうおもしろく進みました。
勉強(学習)の方法を変えた、ということ。
そのような方法の変更が可能な形式だった、ということ。
敬語やていねい語を用いて敬体で文章を書いてみますと、一文がである調よりも短くなります。
倉下は逆な感じがするので面白い。
Google Cloud StorageにあげてあるJSONから読了データを持ってきているもよう
ハイデガーの視座(実存)から捉えたときに初めて「AIと書く」という言葉の意味が浮かび上がってくる
「AIが書く」という言い方は、「AIに書かせている主体がいる」という実態が隠蔽される
「ワープロで書く」という表現だけでは具体的な事はわからない
最初から最後までワープロで書いているのか、まず原稿用紙で書き、それをワープロで清書しているのか。
道具の利用についての解像度を高める必要があるし、それはつまりそこにあるプロセスに注目するということ。
『存在と時間』における決意性(Entschlossenheit)は、被投された状況を自覚しつつ、なお未来に向けて自己の可能性を選び直す態度である。書くことは、そのような決意的実存のひとつの実践形態である。AIが提案する構成や文体に盲従することなく、「それでも私はこの言葉を選ぶ」と言えるかどうか。その姿勢においてこそ、AI時代における書くことは実存的意義を取り戻す。
いかにもハイデガーの思想を取り込んだ論説という感じ。ぜんぜん悪くないし、むしろ思索に役立つが、これまた綺麗に整いすぎている印象も受ける。
つまり、役立つことと面白いことは同じレイヤーではない
ナレッジツールを巡る想像力とは、まさにこの「壊れ」「違和感」から立ち上がる問いの契機として理解できる。Obsidianの階層構造に息苦しさを覚えたとき、Scrapboxの自由度に混乱したとき、私たちはツールとの既存の関与構造を解体し、新たな意味づけを要請される。
この文章は見事だ。
ミシェル・フーコーのいう「自己技術(technē of the self)」
フーコーは「Technologies of the Self」(自己のテクノロジー)といったのではなかったか。 「自己技術」という訳は同じだけども。
しかしそれはそれとしてテクノロジーではなくテクノーという観点で捉え直すのは面白い
あるいは、テクノーからテクノロジーへ、という構図を用いてもいい
同番組もそうだがポッドキャストでは本を扱ったものが定番のひとつで、講談社は「聴く講談社現代新書」、小学館は「本の窓」、文藝春秋社は「本の話」、双葉社は「文芸総合サイト「COLORFUL」podcast」など出版社各社も自社の本のプロも-ションとして取り組んでいるし、書店も代官山蔦屋書店人文フロアの「代官山ブックトラック」、往来堂書店の「公開書店営業inスペース」、バリューブックスの「本チャンネル」「本の惑星」などの番組がある。ほかにも無数の本紹介番組が制作されている。本好きは耳からもたくさん言葉を入れたいのかもしれない。
日ごとノートで配信を報告することはできるのだけども、たとえばこれが「配信リスト」というページに追記するのだとやる気が起きにくい感覚がある。
おそらく後者は「リストの維持」が主たる目的であるかのように感じられるからだろう。人への/人からのまなざしがない。
タイトルになっているこの言葉は「ロギング仕事術」(倉下忠憲 著)の中にある言葉です。
たまたまこの本をパラパラと読み返した時、この言葉が目に留まりました。
私はこの言葉は手帳やノートを書き続けていく上で非常に大切なことだと思います。
この言葉はこう続きます。
『書くことを通して「考える」が起きること』
そういえば、ロギング仕事術に出てきた概念やテーゼはまだこのプロジェクトで整理できていないな
自分の本について、他の本と同じように読書メモをとる、というのは面白そうだ
過去の一つの書き込みが、新しい書き込みへと統合されていく(💡)
「統合」だけではないけども。
巻き取られていく、という感覚か。
つなげるメモ術はその感覚をうまく捉まえられるが、デジタル(というかCosenseではどうか) そもそも、日ごとノート的運用よりは、もっと個別的に書くことが想定されている(行リンクもそうした運用の想定がある)
僕がここでやっていることも、僕の言語体系では「情報整理」だけども、一般的に認識されている「情報整理」とは違うだろう。そうした(つまり一般的な)情報整理では、自分の思考が進むことの補助、という観点はあまりない。 ここに書いていることのいくつかは、「考え事」にレベルアップできるものを含んでいる。(💡)
扱いたい対象が、「考えたいこと」と「考えることにやくだつヒント」の二種類がある。
これまでの「ナレッジマネジメント」よりも「ナレッジディスカバリー」に重点を置いたサービスと理解しました。
倉下はナレッジをマネジメントしたいのでもディスカバリーしたいわけでもなく、「考えたい」のだなと逆に感じた。
昔はこういうサービスを求めていた気はするけども、そこまでテンションは上がらなかった
我々がキーワードにラベルを付けるのは、プレイヤーがカードの効果を認識しやすくするためであり、またゲームについて語るための共通の語彙を提供するためである。そして、最も重要な理由として、キーワードはルールテキスト内で参照可能なメカニズムだからである。この点については後述する。
自分の言語空間で言葉を定義することと、何かしらの共有空間で言語を定義すること
ノビノリ
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=9_tmbe6NnWE&feature=youtu.be
@ikkiTime: @rashita2 「自分に対する【プロンプト】」って、なんかオチがついたみたいで美しかった。 うちあわせCast 第百七十一回:Tak.さんとナレッジツールに対する想像力について で出てきた話。
自分に対するプロンプト、と考えたときに(あるいはそのような言語観、思考観)に立ったときに、何が言えるか。
熱量がすごい
買った本
https://gyazo.com/2a70960f8e4243b0118727da95afeb32
『Balatro』というゲーム
仕事術などを伝える本の中で「残念な人の特徴」などとやり玉に上げるの、倫理的に何も思うところがないのだろうか。
バラエティの「いじり」にも似た嫌な感じを覚える
知的筋トレなるものがあるとして、ではそこにおける「筋力」とは何を意味するか ←『完全図解版 プリズナートレーニング』 また「関節」は何にあたるか。
「自由にやれ」ではなく、「好きに欲せよ」かな。
プログラミングとゲーム(💡)
遊びとしてのゲームとか趣味のプログラミングとかは、失敗と試行錯誤のちょうどよい練習空間である。プログラミングに慣れることは、記法を覚えることだけではなく"エラー"とのつき合い方を学ぶことでもある。思った通りにいかなかったときに、状況を切り分け、1ステップずつ確認していくという知的なプロセスの習得は他の領域でも有効だろう。
プロトタイプとアーキタイプ
生きる上での確固たるプロトタイプが機能不全になったら、次はいくつかのアーキタイプからの選択、ということになるのだろう。
Audibleの解約
結局あまり聴けなかった
耳を休めるというか、インプットしない時間でそこまでに自分がインプットしたことについて考える時間が必要という感じがする。