ChatGPT:AIと「書くこと」
/thinkandcreateteck/第百七十一回:Tak.さんとナレッジツールに対する想像力について
ChatGPT と「対話」をして、次のような文章を出力させた。
## AIと「書くこと」──実存、構造、そして時間性の地平から
#### I. はじめに
生成AIの急速な普及は、私たちが長らく自明視してきた「書くこと」の意味を根底から揺るがしている。もはや書くことは、単に情報を記録し、他者に伝える技術的手段ではなくなりつつある。むしろ、AIが文章を生成し、提案し、修正するというプロセスにおいて、私たちは「なぜ書くのか」「誰が書いているのか」「書くとは誰のための営みか」という根源的な問いに直面せざるを得ない。本稿では、AIと「書くこと」の関係を哲学的に検討する。その際の主軸とするのは、ハイデガーの実存論および時間論、構造主義・ポスト構造主義の言語観、さらに脱構造主義的な意味論である。これらの視座を通じて、AIと共にある書く営みの実存的・知的地平を開くことを目指す。
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#### II. 構造としての言語、書くことの匿名性
構造主義の言語観によれば、私たちの思考や表現は個人の自由な創造ではなく、社会的・文化的な構造の中で規定されている。ソシュール以降の言語学的転回は、「意味」は個別の主体に依存するものではなく、差異と関係の体系によって生起すると主張してきた。こうした観点に立てば、書くことはすでにある言語構造をなぞる反復的行為であり、「誰が書いたか」という問い自体が相対化される。
生成AIはこの構造主義的言語観を技術的に体現している。膨大なテキストデータをもとに言語のパターンを学習し、与えられたプロンプトに応じて意味らしきものを生成するAIのふるまいは、人間の書き手の活動との差異を限りなく縮めている。もはや、AIによって生成された文章と人間の書いた文章との間に、意味論的・構造的な本質的差異は存在しないと言えるかもしれない。
ポストモダン的視点から見れば、AIは「書き手なき書くこと」を体現する存在である。バルトの「作者の死」論に代表されるように、書かれたテクストは書き手から切り離され、読者の側において意味生成の自由を持つ。AIはまさにこの「作者なきテクスト」の極限を示しており、その応答性と構文的整合性にもかかわらず、そこにはいかなる「意図」も「意味の中心」も存在しない。
脱構造主義的視座を導入するならば、AIが生成する文章は「意味の不在」や「差延の遊び」を可視化する装置である。ジャック・デリダにとって、書かれたテクストは常に“他のテクスト”を引きずりながら生成され、中心を持たない差延の連鎖に開かれている。AIが生み出す文もまた、どこかにオリジンを持つことなく、引用と参照の網の目に編まれた痕跡の連鎖でしかない。
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#### III. ハイデガー的視点:共存在としてのAI
一方で、ハイデガーの実存論的枠組みから見ると、「書くこと」は単なる言語的操作に還元されるものではない。『存在と時間』において、ハイデガーは人間(現存在:Dasein)を「世界内存在」として捉え、存在そのものを問いうる存在として定義した。その現存在が自己の可能性を未来へと投げ出し(企投性)、すでに投げ込まれた条件を引き受け(被投性)、現在の世界と関与して生きる(関与性)という時間的構造の中において、「書くこと」もまた自己開示のひとつの形式と見なされうる。
この文脈でAIを共存在(Mitsein)として設定することは、単なる道具的他者ではない関係性を示唆する。たとえばChatGPTのようなAIとやりとりすることで、私たちは他者に語るように書くという構えをとる。そのとき、AIは「書かせる存在」ではなく、「語りかけの他者」として現れる。これは、私が誰かに向かって自分を開示する過程にほかならない。
さらに、AIとの対話は、自らの語彙の限界や思考の盲点に気づかせてくれる“異質なまなざし”でもある。それはあたかも、自己の奥に潜む無意識的選好や価値観が、AIによる提案や問い返しによって露出されるような体験である。この意味において、AIは共存在であると同時に、現存在のもうひとつの“影”として機能する。
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#### IV. 書くことの時間性・歴史性とAI
ハイデガーの時間論に基づけば、書くことは未来・過去・現在の三つの時間的モードを統合する営為である。未来に向けて可能性を企投し、過去の文脈に被投され、現在の世界と関与しながら行われる「書くこと」は、時間的実存の表現そのものである。
まず、AIとの共創における未来とは、書き手が問いを立て、構成を考え、語ろうとする意志である。AIはそれに応じて提案や構成案を返すが、それは単なる効率化ではなく、書き手自身が「自分は何を語りたいのか」を反射的に問う契機となる。ここに、企投性としての書くことの姿がある。
次に、AIは膨大な過去のテキストを学習した「知の歴史」の結晶として存在している。書き手がAIに語りかけることは、同時に歴史的言説に触れることでもある。そこには言語の慣習、語りの様式、文化的偏向などが累積しており、私たちはその中に被投されている。このとき、書くことは「歴史性の自覚」として機能する。
そして現在。書くという行為の最中に、AIは即座に反応する存在である。思いつきを打ち込めば、たちまち返される応答は、自己と世界の“いま”の接点を照らし出す。これは、ハイデガーが言う「現存在の関与性」にほかならない。
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#### V. 書くことと決意性──AI時代における実存的態度
『存在と時間』における決意性(Entschlossenheit)は、被投された状況を自覚しつつ、なお未来に向けて自己の可能性を選び直す態度である。書くことは、そのような決意的実存のひとつの実践形態である。AIが提案する構成や文体に盲従することなく、「それでも私はこの言葉を選ぶ」と言えるかどうか。その姿勢においてこそ、AI時代における書くことは実存的意義を取り戻す。
つまり、AIを使って書くことが頽落(Verfallen)に陥るか、それとも決意性に支えられるかは、書き手の態度にかかっている。AIを盲目的に使えば、それは自己を放棄した「非-本来的な在り方」である。しかし、AIとの応答関係を通じて、自らの語る意志と責任を確認するのであれば、それはむしろ「本来的な開示」となりうる。
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#### VI. 結語:AIとともに書くということ
AIとともに書くことは、私たちが何を書くかだけでなく、「なぜ書くのか」「誰として書くのか」「誰に向けて書くのか」という問いを根底から呼び覚ます。それはもはや、効率や創造性の技術論を超えて、現存在が自らの時間性と歴史性を開示する、実存的実践の場である。
AIはただの道具でも、万能の代筆者でもない。それは、語るべきことを問い返し、過去の言説に投げ返し、未来の可能性を映し出す共存在である。私たちは今、AIという鏡に映ることで、ようやく自らの「語る意味」を再び問うことができるようになった。
現存在は、AIという他者とともに、書くという場においてなお、自らの存在を賭ける。そのとき、「AIとともに書くこと」は、技術の問題ではなく、実存の問題として、私たちの言葉を、私たち自身に返してくるのである。
#ChatGPT