フィクショナルキャラクター
https://waral.club/wp-content/uploads/2018/06/otaku_0023.jpg
より詳細に上記の作品群について登場するキャラクターをフィクションキャラクターと示す
キャラクターへのアプローチ
キャラクターへの欲望
(今までの制作物から)自分はキャラクターに接触したいと考えているといえる 接触したい:物理的に存在してほしい。何らかの手段でキャラクターが(映える?)瞬間に関わりたい 物理的に存在する
キャラクターが現実に実際に伴うことってない。物理的にといいつつそこに生があることはないわけだし。
@hobby_magazine: 『#リゼロ』レムや『#このすば』めぐみんのデジタルフィギュアを「Gatebox」で召喚!体験会でキャラクター召喚装置を目撃せよ!! https://pbs.twimg.com/media/EGbFsNDXYAA0Lxy.jpg
そのための方法を試すことをしてきた
自分はキャラクターに対して性愛の目を向けている(言い逃れのできない事実)
「これは単なる絵だ」
キャラクターにマフラーを巻きたいし、手袋をプレゼントしたい
物語のためのキャラクター以外もいる=匿名のn次創作のためのキャラクター
@eternal_kaorin: デジ絵の物質化(プリントなど)は「現実に存在して欲しい」等の分かりやすい欲望に沿っているし、体験化(インスタレーションの手法を用い、目だけでなく身体をふくんだ鑑賞を可能にする比較的大きい展示方法)も同様な欲望から由来すると思う。 しかし、0と1による情報でしかないという儚さ→
たしかにキャラクターって印刷すると「現実に存在して欲しい」等の分かりやすい欲望を示すことになる
キャラクターは誰のものか
キャラクターがどこで生きているか
キャラクターの死とは忘れられた時らしい
現実では、夢は「(眠っているあいだに)見られる」、回想は「(過去として)思い起こされる」、幻覚には「不覚になる」ようなものだが、フィクションのキャラクターにとって、夢を見たり回想したりするように、二次創作に対する、(わたしたちの"現実"に照らして)非現実的な関係がある、と。
その物語世界がひとつの語られているようなもの(一貫的でなくても)であるために、ひとつのパッケージ、あるいは"本編""公式"だけに強く限定しなくてもいいんではないか、
キャラクターはいないからキャラクターだろう
ほんとうにいない?
画像とキャラクターと物質
キャラクターの画像
結婚できてないだろ
作品を参照する
キャラクターとは、今までは自分にとってはデジタルであり、現実に存在しないものであり、匿名の想像力によって無限にn次創作され、増殖し、改変され、遍在する幽霊のようなものだと思っていました。次元が違うから美しいし、憧れ、萌え、会えないからこそ愛おしくてたまらない存在であり、だからこそ現実の画像は使わずにネットの画像だけを拾って作品をつくってきました。
しかし、偏在し、拡散しコピーをされ続けるキャラクターでも、ある形をとれば一人の人間に大切にされ、かけがえのないものになる。そのことが今回の震災で、自分にとびこんでき、よりによって、失われたあとに気づかされました。
被災地では、打ち捨てられたぬいぐるみをただただデジカメで撮り続け、祈り、現地の土産をたくさん買い、募金をするなどもしましたが、自分にできることはこのキャラクター達を表現に還元し、何かを伝えることだと考えました。
キャラクターがいることを確かめる方法
テレビの画面の中や雑誌の中のアイドル、携帯端末に保存され、その端末の中に存在するアイドル。
その存在はファンの手によって文字通りディスプレイの中で拡大縮小が自由になり、彼らのサイズは失われる。
ここで、一つ「ファンが得られる彼ら(アイドル)の情報のうち彼の存在を証明するものは、”重さ”である」という仮説を立てる。「質量がある」ということは、ひとつの物体として、そこに存在しているという根拠である。
特定のアイドルの体重分の土を彼として置き換える。彼の質量分の土から、かつて彼の体内に存在 していた”かもしれない三つ葉”を抽出することによって、失われたアイドルのサイズを掴むことへのアプローチを試みた。
※1 三つ葉は彼のデビューにまつわるエピソードにまつわる親子丼に乗っていたものである。
アイドルが端末の中に存在する→サイズが失われる→ファンが得られる情報で存在の照明になるものは重さ→彼の体重を土として置き換える→体内に存在していたかもしれない三つ葉を抽出→失われたアイドルのサイズを掴むことへのアプローチ キャラクターを純粋に撮影したいとき、最も優れた方法はスクリーンショットである。 キャラクターが存在しているのは、画面の外側ではなく内側だからだ。
では、フィギュアを撮影するという行為は一体何を撮っているのだろうか。
本作では、iPhoneのデジタルズームを用いてフィギュアを撮影しプリントしたものを、解像度が粗いものから順番に吊るして展示した。
キャラクターに実在性を感じたときの比喩、「解像度が高い」とはキャラクターの実在性が高いことなのか? 中古フィギュアの購入者は、前の持ち主がどのように扱ったかを知らないため、中古フィギュアを自分で洗浄することが少なくない。
洗浄という儀式を通して、購入者は大量生産されたフィギュアを自分のものとして固有化する。この作品では、フィギュアは泡で覆われ、キャラクターの記号的なビジュアルを隠している。
泡は洗われることで剥がれ落ち、同時にフィギュアの全体像が現れる。
時間経過で変化するから作品にする理由(強度)になる? 本作ではインターネット上に放流され次々と繁殖するミーム動画を素材とした映像作品を制作し、複数の液晶ディスプレイに映し構成している。 そこに映る映像作品は単なる映像ではなく、液晶ディスプレイの画面がアクリル板やガラスのように物理的な存在として扱われるような構成になっており、 スマートフォンの流通によって芽生えた「画面は水面のような境界面として機能し、触れることのできるもの」という鑑賞者の思考を増幅させる。 ディスプレイの画面を水面のような境界として扱い、ダウンロードアップロードという一連の行為を釣りにおいてのキャッチアンドリリースに見立てることによって、 そこにミーム動画による一つの生態系のサイクルが存在するように見える。 ディスプレイの画面を通して生まれる生態サイクルを観測することにより、 日々スマートフォンやタブレットといった液晶ディスプレイの中に広がる広大な世界を覗く私たちの眼差しの先を探求する。
本作ではインターネット上に放流され次々と繁殖するミーム動画を素材とした映像作品を制作し、複数の液晶ディスプレイに映し構成している。 ミーム映像というものは、いつの間に生まれ、あっという間に様々なユーザーの目に止まり、編集され再度インターネットの海に戻された後、物凄い速さで増殖していく。 本作品でも、映像作品に使用するため画面越しに釣り上げられて(ダウンロードされ)素材とされていたミーム映像は、 作者の手によって再度編集された後YouTubeにアップロードされることによってインターネットの海に再度戻っていく。
現代の私たちの生活にはスマートフォンやタブレットなど、インターネットに接続された様々な大きさの液晶ディスプレイが溢れている。 本作内の映像作品は我々にディスプレイの画面という透明な板の存在を気づかせる。 透明な画面はインターネットに接続されたiPhoneなどにおいて、インターネットと現実を分ける障壁のように機能する。 本作ではミーム映像というものをモチーフにそれらがディスプレイの画面越しにダウンロード、アップロードされるという一連の行為を、 釣りにおけるキャッチアンドリリースという水面を介して水中と水の外を行き来する行為に見立てることで、 そこに生まれる生態系のサイクル、またそのサイクルの間に立ち上がってくる水面のようなディスプレイの画面を認識させることによって、 私たちの眼差しの先に存在するインターネットとフィジカルの関係性と、それら両間を司どる液晶ディスプレイの画面の存在について考える。