ポール・アザール
1935『ヨーロッパ精神の危機』
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まえがき
なんという対照、なんという激変であろう。位階制、規律、権威が保証する秩序、生活を固く律するドグマ-17世紀の人々はこういうものを愛していた。しかし、その後につづく一八世紀の人々は、ほかならぬこの束縛と権威とドグマを蛇蝎のごとく嫌ったのだ。一七世紀人はキリスト教徒だったが、一八世紀人は反キリスト教徒だった。17世紀人は神法を信じていたが、18世紀人は自然法を信じた。17世紀人は不平等な階級に分かれた社会でのうのうと暮らしていたが、18世紀人はただひたすらに平等を夢見た。(...)連続した世代の間の揺れだけでは、これほど急速で決定的な変化は説明できない。大方のフランス人はボシュエのように考えていたのに、一夜あけると国民は突然ヴォルテールのように考えだしたのだ。これはまさしく革命だった。
それは如何なる革命なのか。その転換のディティールを以下のように描写する。
神的なものは測り知れない未知の天へ追いやられ、人間だけが万物の尺度になった。人間の存在理由も目的も今や人間自身だった。民を導く牧者たちはながく権力を独占して、善と正義と友愛を地上に充ちわたらすと約束してきた。しかし彼らは約束を守らなかった。真理と幸福を賭けた大試合で彼らは負けたのだ。もはや退場するかない。いさぎよく出て行くか、さもなくば追いだされるかである。人間という大家族を保護しきれなかった古い建物は、思いきって取りこわすべきだ。まずしなければならないのは解体作業である。その次は建てなおすこと、未来都市の土台を用意することだ。死の前兆である懐疑論に陥りたくなかったら、まやかしにきまっている形而上学的な夢をあきらめて、人間のかよわい手にも届きうる外見だけ-われわれはそれで満足しなければからないのだ-を研究する新しい哲学を建設しなければならない。神法ぬきの政治学、神秘ぬきの宗教を、ドグマぬきの道徳をうち立てなければならない。学問を単なる精神のたわむれではなく、自然を支配できるひとつの力に決定的に変えなければならない。学問の力で幸福が獲得されることは疑いない。こうして征服された世界を、人間は自分の福祉と栄光と未来の至福のために組織しなおすのだ。
第一部
第一章
同じ状態を保つこと、奇蹟的に生まれた均衡をこわしかねない一切の変化を避けること、これが古典主義時代の願いだった。危険なのは不安な心をそそのかす好奇心であるセネカも言っていたではないか。折目ただしい人間は何よりもまず立ち止ること、おのれとともにいることを知っているものだと。人間の不幸はみな、部屋にじっとしておれないことからくる、というのがパスカルの発見だった。古典主義精神はひたすらに静止を愛した。できれば静止そのものであろうとした。ルネサンスと宗教改革の大冒険の後に、沈思の時がおとずれたのだ。政治も宗教も社会も芸術もとめどない議論や不満げな批判を脱し、人間の笹舟は安息の港を見いだした。ここに長逗留できるように。いつまでもいられるように。秩序正しい生活が現にあるのだから、優秀なものと認められた閉鎖的な体制の外に、すべてをご破算にするような実験を試みる必要がどこにあろう。鬼が出るか蛇が出るかわからないそういう空間を人々は恐れた。時間の流れもできれば止めたいと思った。ヴェルサイユ宮では、泉水の水すら流れていないように見えた。落ちてきた水をとりこんで、また力を加え、もう一度へ吹き上げさしていたのである。同じ水を永久に使おうとするかのように。
第二部
第二章
代表的リベルタン、サンテヴルモン
自分の頭で考えようとする知性、圧服されることにえんじない意志-自由思想家リベルタンは哲学者ではなかったが、すでに〔一八世紀的な意味での〕「哲学者フィロゾーフ」だった。彼らにとって、〔宗教的な〕神秘とは解きがたい謎にすぎなかった。謎が解けないとわかると、みな尊敬の念をいとも簡単に捨ててしまった。彼らは宗教の中ではなくて、その脇で生きていたのだ。暗黒があるなら、それを祓うことができないから、せめて限りある命を生かそうではないか。それが提供する楽しみを品よく味わい、しかるのち運命に譲歩しようではないか。これは精神的なあきらめかもしれない。しかたがないということで許されるだけのものかもしれない。しかし、こういう立場は当時、けっして低俗とはいえぬ多くの人を惹きつけたのである。これがフランスの自由思想家リベルタンだった。(...)ギー・パタンやラ・モット・ル・ヴァイエの跡を継いだジャン・ドエノーがそうである。ドエノーはごたぶんにもれずルクレティウスを仏訳し、追随を許さぬたくみな筆で自己の否定を表現した。そこには憂鬱だが毅然たる調子がみなぎっていた。「われらが死ぬ時、われらの内のすべては死ぬ。/死は何も残さず、自らも無だ。/われらが生きつづけるわずかな時は/ただ極小の一瞬にすぎぬ。/死の後に来るあの未来を/恐れることも望むこともやめよ。/消滅への恐怖と、あの無明の未来に/再生する希望で心を惑わすことをやめよ。/死につづく状態は/生に先立つ状態と同じであるから。/われらは時の餌食となり、/自然はわれらをたえず渾沌へと呼びもどす。/自然はわれらを踏みしだきつつ、永遠の変化をつづける。/われらにすべてを与えたごとく、/自然はわれらの全存在を取り返す。/死ぬことの不幸は生まれることの幸福と等しい。/人は全体的に生まれたごとく、また全体的に死ぬのである。」デズリエール夫人もそうだった。ニノン・ド・ランクロもそうだった。ニノンは自分には霊魂などないことをかたく信じていて、年をとっても、いや死ぬ時にも、けっしてこの意見を取り消さなかった。
彼らは悲劇的な生の諸原理を認識しながらも、疑いようのない現世の生を愛し、エピクロスやルクレティウスを掲げたのだ。そして「この人種のいちばん輝かしい精華」としてアザールはサン=テヴルモンを挙げる。
大臣たちやフランス国王の勘気を避けてイギリスへ亡命した一六六一年から、一七〇三年に世を去るまで、サン=テヴルモンには自由思想家リベルタンである以外にほとんど仕事らしい仕事はなかった。だから、自由思想家リベルタンの典型、自由思想家リベルタンのナンバー・ワンになる暇がたっぷりあったのである。彼は愛惜したフランス人も、彼をいとおしんだイギリス人も、彼がながいこと滞在したオランダの人に至るまで、みなサン=テヴルモンをそういうものとして見ていた。
しかしリベルタンの王となったサン=テヴルモンは、それ以外を捨象したため、17世紀に代表された科学革命には遅れをとった。
彼の性格にも、その精神の或る種の素質にも、言うなれば多少時代おくれなところがあった。(...)「紳士オネットムなどという代物がまわりではだんだん少なくなり、こういう素敵な人間類型もしだいに力を失って歴史の遺物になりつつあったそういう時まで、彼は昔ながらの紳士の座を守りとおした。紳士だったから、彼はけっして自慢しなかった。私が物を書くのは、他人を教え自分の説を主張する学者としてではない、つれづれなるままに筆を取る上流人としてだ、と彼は自ら説明している。まわりの人がさかんに熱を上げていた数学や自然学など、彼にはまったく畑違いだった。彼に言わせれば、紳士にかかわりのある学問は道徳と政治と文学以外なかったのである。科学が哲学の仕事を支え、それをおぎない、科学がわからぬ者は生活の圏外に立たされかねなかった時代だから、こういう態度はどう見ても後向きだった。
そうした彼の態度は原理主義的エピキュリアンとは程遠い。彼のリベルティナージュはその意味で明らかに18世紀的なものであった。
彼はエピキュリアンだった。最高善に関する哲学者の説は多いが、エピクロスの説ほど道理にかなったものはないと思っていた。自然に従って生きるのが彼の望みだった。実をいうと、この自然とはなんなのかしかとは知らなかったのだが、それでも、安楽に生きる術は驚くほどよく心得ていた。権力に庇護され(...)きちんときまった無理のない習慣で毎日を充たし、やや度を越した食いしんぼうで、快楽を十分味わうためにその分量を細心に按配したサン=テヴルモンは、要するに自分一人で楽しんでいるエゴイストだった。欠乏、自己放棄、苦行、禁欲―こうした観念に彼は怖気をふるっていた。中庸と節度と、情念の激発を防いでくれる無頓着と、洗練されたエゴイズムを彼は基本的な美徳とみなした。
また、サン=テヴルモンは「一週間の命の方が死後一週間の栄光よりまし」とするように、「命を大事にし、それを巧みに長期にわたって引き延ばした」。
彼の目には生きること以外に幸福はなかった。サン=テヴルモンが世を去った時、彼をたたえる碑銘詩がたくさん書かれたが、中に一点こんなのがあった。その内容には故人も賛成したにちがいない。「一人ならずの王者に愛され、/一人ならずの貴女にめでられ、/自負をも知らず、恋の炎をも知らずして、/筆をとり美食をたしなむを特技とせり。/うつせみの命をこよなく愛して、/神にはうとく、おのが魂はげに露ほども知らざりき」。たしかに彼はうつせみの命をこよしく愛していた。この命の価値をなす自分のことを自分できめる自由をも愛していた。いろんな自由の中で彼がいちばん大切にしたのは、自分自身の掟しか受けいれない精神の自由だった。
次々節のリベルティナージュの意味の変遷にて、詳しく語ることになるが、サン=テヴルモンは「神なき人間の悲惨」に対し、我々が神に代わって悠久なる現世を楽園とするか(=啓蒙主義或いは強き精神)、はたまた諦観を極め享楽と放蕩にふけるか(18世紀的なリベルティナージュ)、しか残されていないことを知っていた。すなわち彼は全き18世紀の予言者なのである。
この人は自分で自分の神話を作りあげ、わざと自由思想家風の肖像を世に残そうとしたのであって、本当のサン=テヴルモンは後髪を引かれる思いで、懐疑の道も中途までしか進まず、最後まで希望を抱きつづけたと考えるべきだろうか。見事な筆でこういう解釈を語った人もいるけれども、そうだと断定はできない。なぜなら、人間のみじめなありかたに不安を感じ、自分を天使の域にまで高めるか、それともいっそ獣の域にまで落としてくれと言ったりする時、彼がたのむのは十字架にかかった神ではなくて自然だからである。神だったら、こんなことをたのむこと自体冒瀆であろう。「精神と物質のさだかならぬ混合に、/知の光、多きに過ぎしか少なきに過ぎしか、/とまれわれら、善悪を正しく知ることなし。/自然よ、この怪しげなるさまを改めて、/われらを天使の明知まで引き上げよ。/または、並の動物の感覚にまで落しめよ。」
リベルティナージュの意味の変遷
自由思想家リベルタンが自分だけではどうにもならなくなり、一七世紀の末になるともっと守備一貫した強力な哲学思想のつっかえ棒が必要になったことも、やはり動かすべからざる事実だった。リベルティナージュという言葉は、一方では無信仰、一方では官能生活の愛好を意味しており、おのずから精神と感覚の二重の自由がうたわれているが、この二つの性格も時とともに変化していった。不信者はやせこけた時代おくれなガッサンディ哲学に代る新しい理論を求めた。ヴォルテールの内には、自由思想家リベルタンとは別なもの、それ以上のものがあるはずである。逸楽家が求める快楽も前ほど繊細で節度あるものではなくなってゆく。みんなますます放蕩者になり、ますます厚顔無恥になってゆく。
すなわちリベルティナージュは二つの極に分化した。不信仰はガッサンディを乗り超え、その理論を徹底化させようとし、逸楽家はガッサンディのエピクロス原理主義を乗り超え、さらにふしだらになっていったのだ。
摂政時代のリベルティナージュに見られるのは平衡をとろうとする努力ではなくて、むしろこれ見よがしな無礼講である。当時の道楽者の特徴は思想の独立よりも素行の悪さだったのだ。こういう変化を表しているのがラ・ファールとショーリユであろう。なかでもショーリユは、賢明な自然が提供する良き物の内でも酒と女は第一だと思っていた。友人マレズィユの唄に答えて、或る日彼は次のような信仰告白をしたためた。「君の唄に答えるためには、/ルクレティウスかエピクロスの自然論から/むずかしい理屈を二、三/借りてこなくてはならないだろう。/だが、彼らが言う神の本質論などは/あんまり無鉄砲で好きにはなれぬ。/僕が好むのはただひとつ、/快楽に関する説だけだ。/自然が心の奥底に/炎で焼いて彫りつけた/あのさからいがたい傾向に、あの好もしい性癖に/僕は従うだけなのだ。/神聖な放逸の中で、/僕はどんな欲望にも耳をかす。/知恵とはけだし/快楽への道だと思うから。」
このようにして不信仰或いはキリスト教宇宙のオルタナティヴを構想したリベルタンは、放蕩に塗れてしまったリベルタンという名を捨てなければならなかったのだ。
自由思想家リベルタンという言葉自体も意味が変わりつつあった。感覚面での放蕩リベルティナージュでないことをはっきりさせようと思ったら、混同を防ぐために「精神的リベルタン」と言わなくてはならなくなった。それとともに、「理神論やその種の懐疑に陥った人は(...)とりわけ強き精神エスプリ・フォールと名乗る」ようになったのである。
第五章
幸福-これを相変らず来世に任せておくべきなのか。あの世の亡霊などあまりにうつろで影の薄いものではないか。いや、亡霊すらもうないのである。あるのは形など考えられない、何かわからぬ永遠の実体だけだ。もう後光も竪琴も神々しい合唱もない。ならばいっそ地上で幸福をつかもうではないか。さあ急げ。ぐずぐずするな。明日があるとは思ってはいけない。大事なのは今日、ただ今だ。未来をあてにするのは軽率もはなはだしい。純人間的な幸福をしっかりつかもうではないか。
私たちの心が百パーセントくつろぐためには、実存の悲劇性の意識をこそとり除かねばならない。この意識は私たちを一生苦しめつづける。そして最後の息を引きとる時、それはいっそう激発して、ここにもうひとつの悲劇、永世の悲劇が始まる。
シャフツベリが実存の悲劇性を誰よりも痛感していたパスカルにたてついたのは、当然といえば当然だし、ある意味では避けがたいことだった。