ティモシー・モートン
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冒頭
あなたが無意識のことを話題にするとき、誰もそれを好まない。そして最近では、環境を話題にするとき、ほとんどの人がそれを好まない。あなたは、退屈であるか、批判的であるか、ヒステリックであるか、もしくはそれらを混合させたもののように思われる危険を冒すことになろう。だが、より深刻な理由がある。あなたが無意識に言及するとき、誰もがそれを好まない。なぜか。隠されたままであるべき卑猥なことを指摘しているからではない。そういうことであれば、少なくともある程度は、人を楽しくさせてくれる。誰もがそれを好まないのは、あなたが無意識に言及するとき、それが意識化されるからだ。同様に、あなたが環境に言及するとき、あなたはそれを前景化の換えると、それは環境であることをやめる。それは、私たちをとりまき私たちを支える、あちらのほうにある例のものであることをやめる。自分の排泄物がどこへといくかを考えるとき、世界は縮小し始める。これが環境正義をうったえる批評の根本的なねらいであり、本書の根本的なねらいである。本書の中心的な主題は表題に示されている。『自然なきエコロジー』は、あまりにも多くの人が大切であると考えている「自然」の観念そのものが、人間社会が「エコロジカル」な状態になるなら消えることになると論じている。たとえ奇妙に思われるとしても、自然の観念は、文化や哲学や政治や芸術が厳密にエコロジカルな形態にふさわしくなるのを妨げている。本書は、なによりもまずは芸術を考察することでこの背理に取り組むが、というのも、私たちが自然にかんして抱くことになる幻想がかたちをなし、そして解体するのは、芸術においてだからである。とりわけ、決定的なまでに自然についてのものだと普通はみなされているロマン主義時代の文学が考察目標になるが、なぜならそれはエコロジカルな想像力が作動するやり方にいまだに影響しているからだ。
則、エコや環境と捉える時点で客体的で超越論的な次元へと背景化する。そうではなく、前景化し自然なき自然を意識すること。それが本書の主題である。
自然と呼ばれるものを玉座に据えて遠くから崇めることは、家父長制が女性像にたいしてするのと同じことを、環境を相手にすることである。〜『自然なきエコロジー』は、いかにして自然が超越論的な原則になってしまったかを詳細に検討する。
その意味でポスト・モダニストらの論法を援用する。
それは下記性質をも持つ
『自然なきエコロジー』は、エコクリティシズムを根拠づけている想定に挑戦する。エコクリティシズムを終わらせるのではなく、それを開くことを目的にして、そうするのだ。 そして上記の指針を下記のように説く
エコクリティークの指針となるのは、「非同一なものを恐るな」というスローガンである。〜アドルノの議論を援用するなら、思考する過程はその本質において非同一なものと出会うことである。〜少なくともAからAでないものへの運動がなければならない。いつであれ、思考はかならずやその劈頭をおのれではないものにぶつけている。 実態主義と本質主義の拒み
主体をめぐる根本的な問題の一つは、それが実体として、ふわふわした物自体として考えられるか、もしくはそれが本質として、物質の領域だけでなく表象の領域をも超越する抽象的な原理として考えられている。エドマンド・バークは、崇高にかんする彼の著書で、実体を自然のものとして考えている。この「実体主義」は崇高な質(広大であり、畏れおおく、荘厳である)を体現し実際に存在している事物が、少なくとも一つは存在すると主張する。実体主義は主体が従うべきである外在的な事物が存在するという君主制的で権威主義的な考え方を広めることになりがちである。他方で本質主義の代弁者は、カントに見いだされる。崇高な事物はある特定の宗教によっては表象できず、そう試みることは禁じられているとカントは述べている。この本質主義は、政治的には解放をもたらすものへと転じ、革命的な共和主義の側につくことになる。