レヴィナス
1961『全体性と無限』
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本訳では、autreを「他者」ないし「他なるもの」、つねに人間を表す語であるautruiを「他人」と訳し、「〈同〉(le Même)」と対比的に用いられる大文字のl'Autreを「〈他者〉」ないし「〈他〉」と訳す。
形而上学と存在論
レヴィナスは自身の形而上学と存在論-フッサールを含めてソクラテスからハイデガーに至る西洋哲学-を対置して論じる。
レヴィナスの形而上学
形而上学は私たちにとってなじみ深い世界から─この世界をふちどる、あるいは、この世界に隠された未踏の大地がいかなるものであれ─、私たちが住む「わが家」から出発して、異邦なる《自己の外》、彼の地に向かう運動として現れている
本節を読了したとき、上記引用がいかに下書きとして優れているかが分かるだろう。レヴィナスは、そうした運動を下支えしているものとして「形而上学的欲望」を素描する。
形而上学的欲望は、まったくの他の物を、絶対的に他なるものを目指す。欲望についての通常の分析では、形而上学的欲望がもつ特異な野心には歯が立たないだろう。普通の解釈によれば、欲望の土台には欲求があるとされる。だとすれば、欲望は、貧しく不完全な、あるいは過去の偉大さを喪失した存在の特徴を示すことになってしまう。欲望は失われたものについての意識と同じになってしまう。欲望は本質的に郷愁であり、帰りたいつらさということになってしまう。だが、そうなると、欲望は本当の意味での他なるものが存在するなどとは思いもよらない、ということになってしまう。 形而上学的欲望は、帰ることを切望しているわけではない。なぜなら、形而上学的欲望は、私たちが生まれたはずもない国への欲望だからである。いかなる自然とも異質な国、私たちの祖国だったこともなく、決して足を踏み入れることもないような国への欲望だからである。形而上学的欲望は、先行するいかなる類縁関係にも依拠していない。充たしえない欲望。というのも、私たちは、充たされた欲望とか、性的な欲求とか、さらには道徳的な、宗教的な欲求といったことを軽々しく口にするからだ。愛もまた同じように、ある崇高な飢えの充足とみなされる。こうした言葉づかいが可能なのは、私たちの欲望の大半が、そして愛もまた純粋ではないからだ。充足しうる欲望が形而上学的欲望と似ているとしても、それは単に充足が得られない落胆において、そして不十分さや欲望の高まりにおいてのみであって、こうした高まりが、まさに官能をなすのである。形而上学的欲望には別の志向がある──形而上学的欲望は、それを単に補充しうるすべての彼方を欲望する。形而上学的欲望は善性〔bonté〕のようなものだ─〈欲望されたもの〉は、欲望を埋めるのではなく、欲望をえぐるのである。
レヴィナスは、みずからのうちに生じた欠如や必要にもとづいて自我が対象に対して抱く「欲求」とそれを土台にして成立する「充足しうる欲望」と「形而上学的欲望」とを区別している。「充足しうる欲望」は欠如を充たすことで満足することができる。つまり、充たされていたある地点への「郷愁であり、帰りたいつらさ」なのである。一方、「形而上学的欲望」は「充たしえない欲望」という意味でその逆を征くのであり、そうした意味で「形而上学的欲望は、帰ることを切望しているわけではない。なぜなら、形而上学的欲望は、私たちが生まれたはずもない国への欲望だからである」とするのだ。では形而上学的欲望とはなぜ「充たしえない欲望」なのか。
形而上学の終着点が示すこの絶対的な外部性を、そして、この運動が内的な戯れや単なる自己の自己への現前には還元されないということを、証明こそしないものの主張しているのは、超越的という語である。形而上学的な運動は超越的であって、欲望かつ非合致としての超越は必然的に一つの上昇超越〔transascendance〕である。形而上学者はこの運動を超越によって名指すが、この超越の注目すべき点は、それが表現する隔たりが─あらゆる隔たりとも異なって─外部的存在が実存する様態に含まれるということだ。この超越の形式的特徴─他なるものであること─が、その内実をなす。それゆえ、形而上学者と〈他なるもの〉は全体になることがない。形而上学者は絶対的に分離されているのである。
この文章はジャン・ヴァールの『人間的実存と超越』における「上昇超越/下降超越」を理解することで全容を把握できる。平易に言えば前者は外在へ超越することであり、後者は内在へ超越することである―ヴァールの理論的革新性は伝統的な上昇超越の対となる下降超越を提唱したことであるが、あえて伝統的な形而上学的超越であることを示唆するためにも「上昇超越」という語をレヴィナスは用いたようにも思える。そしてヴァールは「超越」概念のアンチノミーを示した。「運動としての超越が終着点としての超越によって説明されるなら、厳密に言って超越はもはや存在しない。(...)もし終着点としての超越が運動としての超越によって説明されるとしても同じことだろう」。言い換えれば、超越が一つの措定された終着点を目指す超越ならば、それはもはや超越ではないし、反対に超越の終着点が運動として規定されるならば、かかる運動は目的=終極を持たない単なる途中の運動に過ぎないものとなり、やはり超越としての性質が失われる、ということだ(引用)。このアンチノミーな「超越」こそが「充たしえない欲望」としての「形而上学的な運動」そのものなのであって、その意味で「超越の形式的特徴」として、ある地点における「他なるもの」(=ある地点における「外部的存在」)が「実存する様態に含まれる」ことが条件づけられているのである。つまり形而上学的欲望とは、形式的に、ある地点と「他なるもの」によって構成されているのであり、それゆえに決して「形而上学者と〈他なるもの〉は全体になることがない。形而上学者は絶対的に分離されているのである」。では随所で言われた「絶対的に他なるもの」とはなにか。
絶対的に〈他なるもの〉とは、〈他人〉〔Autrui〕である。〈他人〉は私と同列の員数に入ることはない。私が「君」や「私たち」と言う場合の集団は「私」の複数形ではない。そこでの私や君は、ある共通概念に属する個人ではない。所有も、数の統一性〔=単位〕も、概念の統一性も、私を他人に結びつけることはない。共通の祖国の不在が〈他者〉を─〈異邦人〉にする。わが家をかき乱す〈異邦人〉である。しかし、〈異邦人〉とは自由な者という意味でもある。彼に対して私はなにかをなす〔=権能を及ぼす〕ことができない。たとえ私が彼を意のままにできるとしても、彼は本質的な面で私の掌握から逃れる。彼は完全には私の場所のうちにあるわけではないのである。
ここで「他人」を人間に限定することは非常に重要な争点である。デリダはこれを『暴力と形而上学』にて人間中心主義的だと批判を加えている。また、「他人」と「他者」ないし「他なるもの」の混同にも気をつけなくてはならない。その違いは次の引用に表れている。「この運動の終着点─ほかの場所または他なるもの─は、すぐれた意味で他なると言われている。いかなる旅も、風土や景観の変化も、終着点に向かう欲望を充たすことはできない。形而上学的に欲望された〈他〉は、私が食べるパン、私が住む国、私が眺める風景のような「他なるもの」ではないし、しばしば私自身が私自身にとってそうであるような、この「他者」としての「私」でもない」。他者ないし他なるものには「パン」や「国」や「風景」などが含まれる。「他人」とは、上記でいう「終着点」としての「すぐれた意味で他なる」ものである。これはその次に「形而上学的欲望は、まったくの他の物を、絶対的に他なるものを目指す」といわれていることからもわかるであろう。
ここにきて全体性の存在論哲学について論ずることが可能になる。西洋の哲学はこうした〈他〉を〈同〉に還元、所有、吸収して、統一体を志すのであり、これこそ彼らの失策なのである。
超越とされていたものは体系の統一性に吸収されることになり、かかる統一性は〈他なるもの〉の根本的な他性を破壊してしまうだろう。(...)〈同〉と〈他〉は共通の眼差しのもとで結合され、両者を分離する絶対的な隔たりは埋められてしまう。(...)〈同〉と〈他〉を包含する一つの全体性の一部をなすことになってしまう(...)とき、私たちの出発点だった形而上学的欲望の野心─絶対的に〈他なるもの〉との関係─は打ち消されてしまうだろう。
レヴィナスにとって、こうした形而上学の「関係を記述することが、まさに本研究の主題である」。
存在論哲学
ではこうしたレヴィナスの形而上学に対して、伝統的な西洋哲学とはなんであったのか、より詳細に記述したい。
西洋哲学は、たいていの場合、存在論だった。存在論とはすなわち、存在の知解を保証する中間的で中立的な項を媒介とした、〈他〉の〈同〉への還元である。
レヴィナスによると「西洋哲学の全体が」、〈同〉の「優位性に向かって進んでおり、それによって定義される」存在論である。つまり大いなる全体性としての〈同〉によって〈他〉は還元され、抑圧され、所有され、自存の否定をなされるのだ。つまり「他性は、思考し、所有する者としての私の自己同一性に吸収されてしまう」のである。則、存在論の体系は、存在を全体性として理解するがゆえに、存在論の体系は、超越と外面性を証明することの不可能性が浮上するのである―その点、形而上学は「〈他人〉が〈私=自我〉や、私の思考や所有物に還元されえない」ため、〈他〉は外面で在り続け、その地点への「充たされない欲望」が我々を超越へと導くのだ。
存在論として繰り広げられる存在との関係は、存在者を理解したり把握したりするために存在者を無力化することにある。したがって、存在との関係は、他なるものそれ自体との関係ではなく、〈他〉の〈同〉への還元なのである。まさに、これが(...)〈他〉の抑圧ないし所有である。所有はたしかに〈他〉を肯定しはするが、〈他〉の自存性の否定のただなかでそうするのだ。「私は考える〔=われ思う〕」は「私はできる」に─存在するものの我有化に、現実の搾取に─帰着する。(...)所有とは、〈他〉が私のものになることで〈同〉となる。
熊野はこれに「〈他〉の自存性をまさに否定することで〈他〉を肯定する」ものが所有であると訳をあてている。レヴィナスの形而上学で論じたように、形而上学にとって〈他者〉は絶えて所有されることがない-所有も支配もされないものが、それでもなお、あるいはまさにそれだからこそ「形而上学的欲望」の対象であるといえる。つまり形而上学では対照的に〈他〉の自存性をまさに肯定することで〈他〉を欲望する、のである。
存在論は形而上学を前提とするのである。
1974『存在の彼方へ』
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可傷性
苦痛こそが「自己を再把持することなき主体」である。身体が苦痛を感覚するのではない。むしろ、苦痛そのものが身体を構成する。意識の運動は、その苦痛が身体の内に広がるその仕方に似ているのだ。
意識の哲学は、感性的経験から出発して身体性を構成しようとするが、他者による強迫〜としての感性的体験はそれ自体で既に身体性そのものである
いまや主体性そのものが「傷つきやすさ(可傷性)」であることになる。苦痛という触発が主体を構るために、身体的内在はもはやありえない。