この運動の終着点─ほかの場所または他なるもの─は、すぐれた意味で他なると言われている。いかなる旅も、風土や景観の変化も、終着点に向かう欲望を充たすことはできない。形而上学的に欲望された〈他〉は、私が食べるパン、私が住む国、私が眺める風景のような「他なるもの」ではないし、しばしば私自身が私自身にとってそうであるような、この「他者」としての「私」でもない