ヘーゲル
シェリングと埋めた自由の樹
1807『精神現象学』
#フッサール
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ヘーゲル的弁証法
: テーゼとアンチテーゼがアウフヘーベン及び止揚を起こしジンテーゼになるぜ
真理の生成過程を花とアナロジーする 
種子が蕾になったらそれは否定ではあるが進化の必要過程だよね的な
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ヘーゲル的実体=主体: 外部と関わりながら自己を維持する
自己が概念を提言したとき、概念は自己と切り離され、他者性,対称性を帯びる(自己外化)
その分離した自己と概念を統一することもある→二つを包み込む自己が生成される
この運動性及び時間性こそ真理!!これを無限性の運動という
事物の螺旋的発展の法則
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絶対知
上記の自己を知、概念を真とするとわかりやすい
つまり知→真になってまたそれが知になって、そっから真生み出してっていうループ
無限性の運動を自覚することが絶対知
否定性が本質、つまりそれは思い出の総和でもある
絶対精神
シェリングの絶対者
絶対的観念論に繋がる
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意識:観想的
感覚的確信
見たまま、ある種指示語ぽい
ex):テレビを見ている「今」→スマホを見ている「今」→ゲームをやってる「今」
上記各「今」は個別的な「今」
これを止揚し、連続的な「今」と捉えると、それは普遍的な「今」となる
これは「ここ」や「これ」にも言える。
知覚
ものの独立的な意味及び存在と他のものとの関係性(差異)が相互連関している
対他存在と対自存在が相互規定する
音韻論と一般言語学の連関に似てるな
悟性
感覚的世界=此岸 :現象 | カオス・非同一
超感覚的世界=彼岸 :普遍的法則 | 秩序・同一
運動方程式
マクスウェル方程式...など
ニーチェの真理とは偽りのない表現ではなく、むしろ、メタファーの動的な一群である的に言うなら此岸のメタファー(コピー)としての彼岸として導出される
ただそれは非可逆的なものではなく、彼岸から新たな此岸へ利用されたりするため相互連関
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自己意識:行動的
欲望
ex) 豚を食べたい→豚を殺して食べる(実存を否定して自己の実存に取り込む)
動物との差異は何か
自然的欲望か非自然的欲望か(人間はどちらも持つ)
非自然とは: 他者の欲望を欲する
他者がいないと成り立たない
承認欲求がないと自己意識は生まれない
自己意識とは
自分自身の認識と他者の自分に対する認識とが相互連関している
つまり対他存在と対自存在が相互規定する
これフィードバック機構ぽい
人格の相互承認が大事
ここで生存戦略が生まれる(なんかこれr-K戦略説ぽいね)
主: 対自存在を貫き通す自己意識
奴による承認が前提
媒介されていると言う(無媒介は承認がないこと、こういった独我論ありえない)
奴: 対他存在に屈服した自己意識
奴は主を承認しているが、主は奴を承認していない
奴はヘーゲル的労働を行う
about: 労働は何かを止揚行為そのもの
木を加工して机を作る
労働とは自己を超出する及び自由になること
主は触媒としての機能
自由を求めると奴は3タイプになる
ストア主義
内面に閉じこもって、欲望闘争を檻の外から優位にみる
ただこれは自己の無限性が欠如するので否定的にヘーゲルは考える
スケプシス主義
全てに対して懐疑的に考える(矛盾命題的なこと)
これだと全て語りえぬものには沈黙しなければならないとなってしまう
不幸な意識に繋がる
矛盾を正当化するために絶対的なものを信奉,傾倒する
ex)キリスト教に全ての思想を委ねること(意識や欲望を外化する)によって自己意識を捨て、絶対的普遍的なものを自己に残す
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理性
歴代ドイツ観念論批判
「自我は自我である」-フィヒテ
何も概念把握してない
物自体は全部自分のもの!!
感覚的確信ではものからの信号を受けてるのにそれは完全に自分ものとは言えねーじゃん
観察する理性
記述して徴表して法則にする(→恣意性から普遍性へのシフト
ここまで観察してきた偶然性を帯びている無機物や自然物ではなく、自己同一性・必然性・体系性を帯びた有機体を対象とし、植物→動物→人間→自己意識を観察する
外なるものは内なるものの表現である
シェリング的有機体論批判
内なるものと外なるものについて、固定的なものではなく流動的なものと批判した。これらを空しい遊びと揶揄したwwwwひでえwwwww
唯物論的
行為する理性
前提知識
他者に承認されないと自己意識を確立できないから
その上で自己意識は大きな他者(実体)から生み出される(社会制度など
実体とは
個別性の遊戯: 自生的秩序的なことかなと解釈(経済など)
安定した本質としての一般者: ヘゲモニーが設計したルールと解釈(法律など)
第一段階: 享楽主義
社会や共同体から離れ愛欲に塗れた1対1の関係を求める(駆け落ち的な)
大きな他者と言う掟やしきたりな普遍性が存在するためむずい(特殊意思に該当するってことー)
第二段階: こころの法則(第一段階を反省し、皆のためにやろう!!)
普遍性があると思っているが無媒介な倫理観に基づく行為
ただこれには普遍性がない(一般意志だと勘違いしている特殊意思である)
個別性の遊戯からエゴイズムに気づき絶望する(学生団体みたいw)
と同時に自分のことすらエゴだと絶望する
第三段階: 徳(第二段階を反省し、個別性を排除した普遍性の善を探求しよう!!)
個別性はそこまで悪いもんじゃないから失敗🥺
それこそ自由放任主義や群知能は割といい感じやしね
即且対時的に現に在るような個人性
ことそのもの: 社会的な価値やマジョリティが認める価値
ことそのものと個人の利益の中で揺れ動くのが自己意識
ことそのものへの欺瞞
ことそのものの実現自体に執着せず、行為単体で自らを慰めるゴミ
実現すら試みない、つまり願ってもない、てことで語る価値もないので語りえぬものには沈黙しなければならない
関心だけ
ことそのものに見せた個別性の遊戯をだましあいと言う(良し悪しではなく)
コーディネーションゲームはだましあいに対する耐戦略性がありそう
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精神(この章は精神史として)
古代ギリシャ
ポリス(公的システム)
table:.(and)
ポリス(父) 家族(母)
規律 人間の掟 神々の掟
引用 クレオン アンティゴネー
当時男性は普遍性のために活動し、女性は個別性のために活動した
「アンティゴネー」より
ローマ法
精神のなき共同体と揶揄
一般者は絶対多数の個人というアトムに分散しており、この死せる精神は平等であり、ここではすべての人々は各人として、人格として認められる
教養
純粋透見によって即自存在を対自存在に形成すること
ただ対自存在は曖昧なもの
ex)
君主は万人の普遍的な象徴でなければならない
アンシャン=レジームでは足りえてない
「羅生門」や『罪と罰』でも絶対的な真理など程遠い曖昧性が現れてる
となると自己が自分自身と疎外関係であることに気づく
ルート①: 信仰
彼岸に求め、絶対的な対象へ
ルート②: 純粋透見(啓蒙)
理性によって真理を探究する
啓蒙の精神へ
信仰と啓蒙の争いへ(啓蒙に群杯)
理神論と唯物論から有用性(プラクマティズム的な)へ
絶対自由から普遍意思へ
フランス革命へ
ただロベスピエールの恐怖政治に繋がる
義務の法則と自然の法則の対立へ
道徳的意識で上記対立が調和する→最高善: 第一の要請
理性と感性の調和: 第二の要請
対立を調停する神の要請: 第三の要請 →神の教えにおける絶対的に正しい純粋義務のもとに自己を確立していく: 道徳的世界観
これらは「思想なき矛盾の全巣窟である」
第一の要請の否定: 最高善が実現していたら義務(道徳的行動)の必要性がない
第二の要請の否定: 感性があって初めて理性及び道徳的意識が成立するため、感性を収束させるこの思想は矛盾
第三の要請の否定: 自分の正しさに向かうはずが神という他律的なものに任せているため
道徳(純粋義務の遂行)からヘーゲル的良心(自己確信に基づく遂行)へ
真理は探究するから真理はつくられるに移行した流れと似てるね
良心とは: 自己の確信であれば制約はない(詐欺でも当本人が良心としてやってればそれは良心)
行動する良心: 自己が確信する普遍性に基づいて行動し、それによって対他存在からフィードバック機構的なものがレスポンスされ自己意識のポジションが確立されていく
批評する良心: 上の批評ver
これら相互が和解によって止揚する(無限性)
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宗教
ここまでの話はあくまで方法論的個人主義的な見方。ここからは方法論的集合主義に批判していく。ヘーゲル的な絶対知とは哲学と宗教(あくまでこちらはイメージ)の統一。
自然宗教: 意識に対応
感覚的確信: 光の神(ゾロアスター教説orユダヤ教ヤハウェ説)
光は様々な存在者を存在させる一者。これにより存在を与えられている
知覚: 植物と動物の宗教 (バラモン教など)
物には多数の諸性質が持っている=多神教:単一性ではなく多数性の立場をとる
悟性: 工作者の宗教(エジプトの宗教)
ピラミッドやスフィンクスなどを崇める
芸術宗教: 自己意識に対応
啓示宗教: 理性に対応
1820/21『美学講義』(引用)
私たちは芸術作品を神のように崇めたてまつる態度をすでに乗り越えている。芸術作品が与える印象は、もっと醒めた性質のものであり、芸術作品によって私たちのなかに呼び起こされるものは、もっと高度の試金石を必要とする。
1821『法の哲学』
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序文
ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏と共に漸く飛び始める
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「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」
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法の地盤は総じて精神的なものであって、それのもっと精確な場所と開始点は意志である。これは自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定をなす。そして法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である。
自由のために本質観取された地平ということが、精神自信から生み出された精神の世界という認識なのでは。そして凝固した経験命題のように基礎づけ化していく(些か懐疑不要であるとは言い難いが)。
意思とは恣意性のある欲求であり、教養のもとに欲求が吟味され、共通善や一般意志のような普遍性のある意思となる。
実質的に『実践理性批判』の自由観の否定。対立ではなくプロセスである
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欲求を労働を介して自由に追求し交換し所有するプロセスが己自体の人格形成(労働における陶冶)をも用立て、市民社会経済の主体と成る。客体的には欲求の体系に相即的に
労働における普遍的で客観的な面は、それが抽象化してゆくことにある。この抽象化は手段と欲求の種別化をひき起こすとともに生産をも同じく種別化して分業を産み出す
につながる(引用)
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普遍的人格を教養の賜である陶冶によって獲得することにより、人格の相互承認をしよう!!
人格の相互承認の言及
真の自由〜は私と他者との同一性にあるので、他者もまた自由であって私によって自由であると承認される場合にのみ、私は真に自由である。
世界史は理性の本質である自由の実現へと進む
ここにおける人格とは法的人格である
民族や血縁などのゲマインシャフトや宗教などのゲゼルシャフトで隔てず、人間を人間とみなそう
1822/31『歴史哲学講義』
美の起源
形象は久しい以前からあった。敬虔な信仰は昔から、崇拝のために形象を必要とした。しかし美しい形象は不要であり、それどころか邪魔でさえあった。美しい形象のうちには、ある外的なものも存在しているのだが、形象が美しいかぎりは、このものの精神が人間に語りかけることになる。しかし崇拝において本質的なのは、ある事物への関係である。なぜなら崇拝そのものは魂の非精神的な朦朧化だからである。~美しい芸術は~教会自体のなかで成立した。~もっとも~芸術はすでに教会の原理からは抜け出てしまっているのだが。
ヘーゲルはここで、美の概念の誕生について説明している。美は崇拝と異なるものである。崇拝は教会の原理に基づいており、神の存在を必要とするのに対し、美は教会の原理から抜け出ており、神とは無関係である。
しかしながら美は教会で生まれた。すなわち、美の概念は教会における芸術の受容のあり方、すなわち崇拝から生じた。その意味では美と崇拝との間には何らかの連続性がある。
その連続性とは一体何なのかが問題であるが、それは何かを崇めるという崇拝の形式である。つまり教会での崇拝は神を対象としていたのに対し、美の概念は神の代わりに美を崇める対象とすることを要求するのである。美は近代において神の代わりになるものであり、つまり世俗化した神なのである。