テオフィル・ド・ヴィオー
シャルル・ソレルの友人
この年の春、「作者が不在」のために、友人たち、とりわけデ・バローの尽力で刊行された。
1621『テオフィル作品集』
テオフィル研究者井田三夫
『テオフィル・ド・ヴィオー』
イタリア自然主義とカルヴァンの系譜としての悲観主義詩人
ヴィオーは二重予定説の教理の世俗化ともとれる「宿命」を謳うことで、決定論的悲劇観を育む。それが独創的なのは、キリスト教のもつ救済の不在であり、徹底的な自然主義者であるヴィオーは虚無へ向かう決定論をもったことで、死への恐怖をより一段と強める結果となった。
「死の恐怖はこの上なく強固な意志を持った人をもたじろかせるものだ/それはひどく難しいことだ、/絶望のさなかにあってまた自らの最期が近づいているとき、/精神が落ち着いていられるということは。/この上なく堅固な魂の持ち主で、かつ宿命がもたらす出来事に/この上なく心の準備ができている人でさえ、/自らの死がすぐ近くに確実に訪れているのを知ったとき、/ひどく驚愕するものである。/(...)/しかし血塗られた判決が彼の刑を確定し、/死刑執行人が姿を現し、その情け容赦のない手が/彼から鎖をはずし、かわりに絞首紐をかけたとき、/凍らぬ血は一滴もなく、/彼の魂は鉄鎖に閉じ込められたままだ。/(...)/死刑囚の教誨師のもたらす慰めの言葉も/彼には決して慰めにはならないのだ」。あるいはまた彼は恋人クロリスへのあるエレジーで、死後の肉体の崩壊と骸骨を描写している。それゆえこの恋愛詩は、人間にはどうすることもできない「宿命」を信じるリベルタン詩人=思想家としてのヴィオーの〈死を想えメメント・モリ〉memento moriの詩ともなっている。「だから最期(死)の影ももはや彼ら(動物たち)をいらだたせ、動揺させることはない。/われら人間は、動物が死ぬとき、絶望が訪れるのを見ることはない。/獣はあらゆる欲望から離れて、/自然が彼らに定めた期限(最期)を取り乱すこともなく、従容として受け入れるのだ」とかあるいは「死んだ愛する女の瞳のうちで生きていくのに、/充分なだけの強い魂を持っていると誓う人々は/肉体を破壊させてしまうおぞましい死がもたらす威力を/見届ける時間を持たなかったのだ。/そのとき混乱した感覚は機能が麻痺し、/顔面は目に見えて崩れ醜くなり、/精神は麻痺し、四肢はきかなくなり、/そしてさらばと自分に言い聞かせながら、もはや意識がなくなり、/やがて生命が消えた後、/顔はその皮膚から表情が消え、/悪臭放つ死骸の腐敗がわれらに開けさせるのだ、/その死体を隠す(葬る)ための穴を大地に」と「死のトポス」を歌った、恋愛詩らしからぬ異様な恋愛詩。ここには同時に、デュ・バルタス、ドービニエやジャン・ド・スポンドはじめ、サン=マタンといったカルヴァン派出身の詩人たちに共通して認められるある傾向、すなわち人間の運命や死はあらかじめ天の神によって決められてしまっており、人間の努力ではいかんともしがたいといったペシミスティックな人生観・運命観も窺われるのである。
ヴィヲーの日本における紹介役となった赤木 昭三と、彼が依拠したヴィヲー論を展開するアントワーヌ・アダンが強調するペシミスティックな詩を、死という主題以上により詳細に紹介する。そこには人間の不可能性が随所で描かれ、世俗化されたカルヴァン的諦念のようなものが顔を覗かせる。
これまで見てきたヴィオーの世界観・宇宙観から窺えるように、彼の人間観や人生観は基本的にはペシミスティックであると言えよう。われわれも、アダンの説にほぼ依拠している赤木氏とともに、ヴィオーと同じような世界観・人間観を共有していた友人のシャルル・ソレルが人間の「崇高さ」、〈高潔性〉générosité を養い、われわれ人間のうちにある「神的なもの」である〈天の火〉flanbeau célestte に積極的に働きかけ、それを高めることによって、「ついに神のごとく生きる」ことを主張していた―ソレルの人間における霊的なものへの積極的働きかけという点は、先に触れたパドヴァ学派に近いドイツの神秘学者アグリッパの、自然への干渉による自然的(物的)存在の「霊化」という考え方と類似性があり、注目に値する―のに対して、ヴィオーの思想は全体として暗いペシミスムが基調であると一応は言えよう。(...)さしあたりアダンや赤木氏の言う、詩人の「暗い」人間観や宿命観について見てみよう。「われらの宿命が運命の悪意によって/悩まされるとき、そしてわれらの眼が/われらを苦しめる太陽の光で/傷つけられるとき、/また不幸の星が忌むことなくわれらに/危害を加えるのを、ただただ悲しみをもって見るとき、/そしてまたわれらの精神が/われらを救済するのではなく、/われらを破壊しようとするとき、」神があらかじめ決めた至上の掟である宿命は、あるいは星辰 Astre によって支配されたわれらの不幸の星は、われわれ人間に忌むことなく危害を加えつづける。「おお、宿命よ、お前の掟は何と過酷なことか!/われらの無実性など、何の役にも立たないのだ/善人の運命は何と過酷な出来事に/遭遇するだろう!」旧約聖書のヨブではないが、いくら善行を積んでも、〈宿命〉は冷酷にもその人に苦難を与えることがある。したがって人間の理性による努力も意志の力も、最終的には無力なのである。「そして私は自らを救うために、理性が最高の賢人たちにもたらす一切のことを試みてみたが、むだであった」。どんなに強靭で健全な精神でも、宿命のもたらす死の悲しみに打ち勝つことも癒やされることも不可能なのだ。「あなたのしっかりした、健全な魂が会話を通してその悲しみを乗り越えようとし/またその悲しみから癒されようとされたが/叶わなかったことも存じております」。(...)こうした死の悲しみとともに、人間の無力さ、運命の不可避性を嘆いた詩として、晩年の傑作『兄のテオフィルの手紙』の次の一節も挙げることができよう。「だがその時をいったい誰が知りえよう!/われらの不幸の数々はいくつもの流れと波動を持っており、その終局も始原も/知り得ない。/ただ神のみがこうした変転を知っているのだ。/なぜなら自然がわれらに授けた精神や分別は、/それをいくら推測しようとしても/海の隠れた潮の流れと同様に、/われらに起こる思いもよらない出来事を/理解することはできないのだから。」これは詩人が逮捕・投獄されてまもなく、いわゆる「第二の改心」がなされ、カトリック信仰への復帰が行われた後の詩のため、明確にキリスト教の「神」が歌われ―とはいえ、この「神」は何とカルヴァン的な神であることだろう!―人間の運命はただ神の摂理にのみ委ねられ、神のみが知っているとしつつも、人間の意志や理性が運命や未来に対していかに無力であるかを嘆いている点では、逮捕・投獄前の中期の人間観とそれほど変わっていない。たとえば中期の『作品集第一部』冒頭の『霊感不滅論、あるいはソクラテスの死』では、「人間は決して自由を所有してはいないのだ、/そして神がわれら人間に与える/熱情や恋の焔は肉体に起因した感情が、/魂から発した感情/共有する限りにおいて、/この上なく素晴らしい力を解放する。/われらの希望が未来に抱いている素晴らしいものは/墓(死)の中に閉じ込められてしまっているのだ。」と歌い、人間の自由のなさを嘆き、自らの決定論的人生観を披露している。(...)人生の種ならない「無常性」instabilité, inconstance' 未来の予知不可能性などを表明している詩をもう一例挙げれば、「今日われらの役に立つものは明日には我らを害するものとなるかもしれない、/人はいつも片手でしか幸せを保持していないのだ。/常ならざる宿命は、そのことを思慮することもなく、われらを無理強いし、/われらを評判にすることで、しばしばわれらに災いをもたらす」。運命 destin に隷属させられている人間の自由のなさやその決定論、不可知論をテーマにした詩には、さらに次のようなものがある。「この上なく人間に属する運命でさえ明日の生存の保障を/今夕われらになしえないという過酷な人間の条件よ、/かくして自然はお前(人間の条件)を運命の流れに従わせ、/こうした共通の掟に万物同様お前を隷属させるのだ」。この詩には人間の条件に対する彼のペシミスティックな考え方が表明されており、これは、いわゆる「人間の悲惨のトポス」topos de la miseria hominis と言われるものである。
アダンや赤木はヴィオーの悲観主義的色調をイタリア自然主義哲学に求める。が、井田はヴィオーのイタリア自然主義哲学の宇宙観における傾倒を認めたうえで、ペシミスティックな人間観はカルヴァンに基づくものだと考える。
アダンや赤木氏が、強調してやまないヴィオーの世界観や人間観におけるこうした「暗いペシミスム」はアダンによれば、ヴァニニから引き継いだイタリア自然主義哲学 naturalisme italien からきているという。われわれもこの影響を否定はしないが、われわれの考えでは、その「暗さ」やペシミスムはむしろヴィオーの精神の奥深くまで沁み込んでいるカルヴィニズム、すなわち人間は万能の神の前ではまったく無力で惨めな存在であり、個人のすべての運命はあらかじめ神によって決定されてしまっているという、カルヴァン派的意識(決定論)からきているように思われる。カルヴァン主義の詩人への影響の問題は後でも再度取り上げることとして、ここではアダンの説を見てみよう。彼に言わせると、ヴィオーは師匠ヴァニニとともに、「自然」の観念を正統カトリックの認める「神」の観念と置き換えており、それゆえ〈運命〉Destin も人間のさまざまな悲惨もすべて、この「自然」が包含しており、この「自然」が生み出したものであるという。こうした「自然」即神と見るヴァニニの「自然」の方がブルーノのそれより秘術的でなく、自動運動する機械論的自然観となり、その意味でデカルトの世界観により近づいているようにも思われる。したがってヴァニニやブルーノにとって「自然」とはもちろん、近代的意味での客観化し測定しうる対象物、自然現象としての自然ではなく、「生きた自然」、「すべてを生み出す甘美な母なる自然」nature douce mére' 「豊穣な自然」nature fécoede である。(...)ヴィオーのこうした宿命観、宿命に縛られた人間の自由のなさや惨めさの観念、さらには未来の予測不可能性といった決定論的観念や不可知論的諦念は、アダンが言うようにヴァニニやパドヴァ学派、ブルーノ―両者ともに魔術的星辰思想をも内包している―からの影響は否定できないにしても、彼がカルヴァン派のプロテスタント出身であると言う事実も少なからず影響している、というよりこの事実こそが、少なくとも詩人の世界観や人間観・人生観の「暗さ」やそのペシミスムの主因であったとさえ感じられる。(...)「私たちは、ここの人間に定められた神の恩恵を〈予定〉とよぶ。なぜなら神は、すべての人間を平等な状態につくったのではなく、ある者を永遠の生命へ、ある者を永遠の断罪へと定めたのだから。このように、人間はつくられている目的にしたがって、死または生に定められている」(『キリスト教綱要』)。つまりカルヴィニズムの二重予定説―個人の運命は生前から神(の意志)によりあらかじめ決定され、予定されており、ある者は永遠の救い(天国での永生)が、またある者には永遠の滅び(地獄落ち)が定められているという絶対的決定論―からきている部分も少なくないように思われる。これまで例示してきた詩句に見られた詩人の世界観、人生観、人間観には、アダンや赤木氏が問題にしているイタリア・ルネサンス思想ばかりではなく、カルヴィニズム信仰に含まれている不可知思想や決定論的思想(神の人間に対する権威の絶対性・至高性)あるいは人性のあらゆる出来事が神によってあらかじめ決められてしまっているため、それからは絶対的に逃れられないといった意味での至上不動の掟としての〈宿命〉思想、さらに言えば神から人間への、上から下への一方的な絶えざる働きかけの受認といった思想が反映されているようにわれわれには思われる。(...)ヴィオーの詩には、中期と晩年の二回のカトリックへの回心―正確に言えば第一回は改宗、第二回は回心―にもかかわらず、前・後期を問わず全生涯にわたって、カルヴァン派的な思惟体系が認められ、その世界観や運命観、さらには人間観にあっても、カルヴァン派的な見方・考え方が最後まで残存していたと言えるのではなかろうか。
「前世紀および今世紀の二大ヴィオー学者であるアントワーヌ・アダンとギッド・サバも、テオフィル・ド・ヴィオーが逮捕・投獄により、それまでのリベルティナージュ思想を捨て、「第二の回心」を経て、正統的キリスト教信仰すなわちカトリック信仰に帰還したこと、しかも「第二の回心」が火刑から逃れるための方便ではなく真摯なものであったことを認めている」点で、井田は「1623年以前の詩人の初・中期の思想のみを取り上げ、ヴィオーが〈宇宙霊魂〉説、魔術的星辰信仰、ルネサンス・アニミスム思想などを中心とするイタリア・ルネサンス思想(フィッチーノ・ブルーノ・ヴァニニ・パドヴァ学派哲学)を受け継いだ代表的・典型的リベルタン」とする赤木=アダン学説から袂を分ち、「1624年初頭の「第二の回心」以降の後期ないし晩年におけるヴィオー」論の刷新を試みるのである。すなわち、ヴィオーは後期及び晩年にリベルティナージュ思想を放棄し、キリストに回帰したのだ。
これは井田が刊行したヴィオー全集の言葉だが、上記の立場を明瞭に示しているため引用したい。「私は本書において、アダン以来のこれまでの定説、すなわちヴィオーは十七世紀の代表的自由思想家(リベルタン)で、宇宙的なアニミスムと理神論を主体としたイタリア・ルネサンス(パドヴァ学派)の自然主義哲学の継承者・体現者という見方を否定しないにしても、疑問を投げかけ、むしろ本質的にはカルヴァン思想の体現者ではなかったろうかという、まったく新しい見解を提起。すなわち赤木 昭三氏さらにはギッド・サバ氏などはテオフィル・ド・ヴィオーの決定論的思惟、人間に無関心な冷厳な神観念や彼のペシミスティックな人生観や人間観は、パドヴァ学派などに見られるイタリア・ルネサンスの自然哲学に依拠したリベルティナージュ思想から来ているというアントワーヌ・アダンの伝統的見解を踏襲しているが、私はヴィオーのそうした諸性質はむしろカルヴァンの二重予定説からくる決定論的世界観や彼の徹底したペシミスティックな人間観や人生観から来ているのではないかとの立場から考察した。」。
初・中期の宇宙観
赤木氏がすでに指摘しているように、テオフィル・ド・ヴィオーは地動説を信じていた可能性があり、少なくともその存在は明確に知っていたと思われる。地動説自体はすでに古代ギリシャ時代より存在しており、ピタゴラス派のフィロラオスの説―宇宙の〈中心火〉の周りを太陽や地球その他の惑星がまわるという説―が最初と言われているが、地球が太陽の周りを回るという本格的な地動説はアリスタルコスが最初らしい。近代的意味での地動説はプトレマイオスを経て十六世紀前半のコペルニクスまで待たねばならないが、ヴィオーはその友人たちとともに、こうした近代的な地動説を知っていたと思われる。アダンはその根拠として、シャルル・ソレルの『フランシヨン滑稽物語』の「夢」の一節を挙げている(...)。ヴィオーはソレルとかなり親しかっただけに『フランシヨン』の「夢の記述」(...)は、赤木氏も指摘するように、ヴィオーが地動説を知っていた証拠にはなるが、必ずしもそれを信じていた証拠にはならないのは当然である。しかし当時の状況では、そのことを公然に認めることは宗教裁判にかけられ、異端として火刑に処せられる危険があったことを考慮するなら、ヴィオーやサン=タマン、あるいはシャルル・ソレルなど当時のリベルタン詩人たちは内心ではおそらくこうした地動説を信じていたと推測されるのであり、この点でも、彼らは当時としては非常に進んだ科学的・合理的精神を持った学識的リベルタンでもあったと言えよう。