ダンテ
直訳すれば『神聖喜劇』が正しいが森鴎外はそれを神曲と訳し、中国においても踏襲された。本書は地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る、全14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。
『神曲』
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地獄篇はキリスト教新約聖書外典である「ペトロの黙示録」で語られている世界観を踏襲している。
地獄篇
第一歌
本書は夜明けへとむかうダンテに物語が始まる。
真の道を棄てたその時、/ 私は深い眠りに浸っていた。/ だが、私の心を恐怖で貫いていた / あの谷が終わりを告げる / とある丘の麓にたどり着いたときのことだった。/ 私が高きを仰ぐと、すでに丘の両肩が、/ あらゆる道を通じて他の諸人を正しく導く / 惑星[太陽]の光によって包まれているのが見えた。/ 張り裂けんばかりの苦悶とともに過ごした夜の間じゅう / 私の心の奥底まで捉えて放さなかった / 恐怖が、この時、いくぶん和らぐのを覚えた。(...) すると、登り坂が始まろうとするその所で、/ 身のこなしの軽い、とても敏捷な豹が一頭現れた。/ 斑の皮で覆われたその豹は、/ 私と面と向かい合ったまま離れようとはしなかった。/ それどころか、私の行く手を遮ろうとするので、/ 私は引き返そうかと、幾度も後ろを振り返った。/ 折しも時は、朝の始まりを告げていた。/ かつて神がその愛で / あの美しき星たちを初めて動かしたときにも、/ 一緒にあった牡羊座を従えて、太陽は空へと昇っていた。/ それで私は、この朝という時刻、甘美な季節から、/ あの斑目の皮をした獣など / 恐れるには足らぬと思い始めた
「あなたこそが私の師であり、鑑なのです」などと、ウェルギリウスへの傾倒を告白するダンテがむかう「朝という時刻、甘美な季節」とは、悲願たるギリシャ・ローマ哲学的救済への道筋の成就の寓意であることだろう。しかしそれは失敗に終わる。
それも束の間、一頭の獅子が私の前に現れるのを / 眼にして、新たな恐怖に襲われた。/ 獅子は私を目指して進んで来るように思われた、/ 頭を高くもたげ、飢えて怒気を放ちながら、/ そのため大気までもが打ち顫え、恐れおののいているかのようだった。/ すると、痩せさらばえ、あらゆる飢えを漲らせている / ように見える一頭の雌狼がいた。/ これまであまたの人々を悲惨の極みに陥れてきた / この雌狼の姿とその眼差しが発する恐怖に / 押し潰されるあまり、/ 私は高きへ向かう望みを失った。/ 人は、手に入れるときは喜び勇んでいながらも、/ 失わされるときがやって来ると、/ 思いのたけを限りに嘆き悲しむものだが、まさに私は / 休みなき獣によって、そうした気持ちを味わされていた。/ 獣は私に向かって、一歩また一歩と迫り来て、/ 私を、太陽が黙するところへ、ふたたび追いやっていった。
「獅子は(...)私を、太陽が黙するところへ、ふたたび追いやっていった」そして「私は高きへ向かう望みを失った」とは、ウェルギリウスなどの哲人と呼ばれるものたちが獲得した、あの高き精神への望みを失い、甘美な救済の象徴たる夜明けとしての朝から、「太陽が黙するところ」すなわち「張り裂けんばかりの苦悶とともに過ごした」夜へと追いやられたことを意味する。よって本書はローマ哲学の旅路と、その敗北から物語が始まるのであり、ゆえに高き精神を獲得したとダンテが信じたウェギリウスでさえ「天に君臨し給うかの皇帝[神]」に拒まれ、「その王国[天国]に入ること」は叶わない。したがってウェルギリウスは、自らが示した道を進んできた者へ、次のように告げる。「おまえは別の道を旅する必要がある」。
ではローマ哲学を失敗へと追いやるあの獅子の正体とはなんたるか。その解消の術をウェルギリウスへと縋るダンテに彼は以下のように告げる。
「おお、すべての詩人を照らす光であり、誉れよ、/ 長き精魂を傾け、ひたすらあなたの詩集を愛し、/ 紐解いてきた私に、今こそ情けをお掛け下さい。/ あなたこそが私の師であり、鑑なのですから。/ 私に誉れをもたらした美しい文体は / ただ一人、あなたから受け継いだものなのです。/ その獣を見て下さい。私が後戻りしているのはこいつのせいなのです。/ 高名な賢者よ、総身の血を震え上がらせる / この獣から私を救って下さい。」 私の涙顔を見て、彼はこう答えた、「この野生の地から抜け出したいなら、/ おまえは別の道を旅する必要がある。/ なぜなら、おまえがどんなに叫んだとて、この獣は / 他の者が自分の道を通るのを決して許しはない、/ それどころか、散々邪魔だてした挙句、最後は殺してしまうからだ。/ 生まれつき、かくも邪悪で、罪深い性のため / 飽くなきその貪欲が満たされることは決してない。/ 食べた後の方が、食べる前よりも腹が減るという奴だ。/ こいつが番う動物は数知れぬ。/ それ故、これからまだまだ増えゆくだろうが、それもヴェルトロ / が来るまでだ。このヴェルトロがあいつを悶え死にさせてくれよう。/ このヴェルトロは塵や悪貨を食べることなく、/ ただ叡智と愛と徳を糧とする。/ その生まれはフェルトロとフェルトロの間となろう。/ そして、あの惨めなイタリアの救いとなる。/ このイタリアのために、かつて乙女のカミッラが、/ エウリュアルスが、トゥルヌスやニーススが命を擲った。このヴェルトロは都市という都市からあの獣を狩り立て、ついには、地獄へと送り返すだろう、/《最初の嫉妬ルチーフェロ》が解き放った場所へと。/ それで、おまえにとって最善のことを慮って言うが、/ 私の後に従うがよい、私がおまえを導いてやろう。/ おまえをここから救い出し、永劫の地へと連れ行こう。/ その地で、おまえは耳にしよう、希望なき嘆き声を。/ おまえは眼にしよう、苦しみにむせぶ、古の魂たち皆が / 第二の死を乞い求めて、叫んでいるのを。/ また、おまえは見るだろう、炎の中で満足の笑みを浮かべている / 人々を。それは、いつの日か至福の人々の中に加えられる時の / 来ることを待ち望んでいるからだ。/ その後、もしこの至福の人々の許に昇りたいとおまえが願うならば、/ 私よりもそれを為すにふさわしい魂がおられるから、/ おまえをその方に預けて、私は立ち去ろう。/ なぜなら、天に君臨し給うかの皇帝[神]は、/ 私がかつてその掟に背いたことがあるゆえ、/ 私のような者がその王国[天国]に入ることをお望みにならぬからだ。/ かの方の力が及ばぬところ、全宇宙のどこにもないが、統治しておら / れるのは、天界のみ。そこに、かの方の王国と高き玉座がある。/ かの方に選ばれて、そこに行く者は幸いなり。」
「この獣は / 他の者が自分の道を通るのを決して許しはない、/ それどころか、散々邪魔だてした挙句、最後は殺してしまう」。これは死へと不可避に向かう人間とそこに巣喰う恐怖それ自体。これこそが獣であり、高き精神を阻害するものである。それは「海も凌駕し得ない激しい流れのそばで / 彼を襲う死が見えないのですか?」とベアトリーチェに説く第2歌のルチーアの言葉から明らかだろう。「生まれつき、かくも邪悪で、罪深い性のため / 飽くなきその貪欲が満たされることは決してない」とはまさに我々自身の原罪であり、それこそが「太陽が黙するところへ、ふたたび追いやっていった」のである。他にも一つ前にあたる引用にあった「休みなき獣」という比喩は死へと向かう生の力学を表しており、『神曲』を読んだショーペンハウアーが「現在がなんら阻止されず過去の中へくりこまれていくことは、死への休むことのない移行であり、休むことなく死んでいくことだといっていい」と言うのは、このダンテを襲う獣のことであると言えよう。
また、それはキリスト神学者ティリッヒの言説に象徴的である。彼は死を理性的に受容せんとするローマ哲学等の「諦念」思想は、万人に開かれた手立てであるが、それには理論をもって精神の躍動を平伏せねばならないゆえに、哲人のみに可能であるからして救済たりえないことを強調する。こうして、ダンテはローマ哲学に替わる次なる「イタリアの救い」を提案する。「かの方に選ばれて、そこに行く者は幸いなり」とキリスト教の勝利を、その甘美な救済への道を啓示すること。それこそが本書の主題である。
第二歌
第三歌:地獄門、前庭、渡船場
こうして意を決したダンテが第一に望むは、地獄門とそこに刻印された言葉であった。
われを過ぎる者、苦患の都市に入る。/ われを過ぎる者、永劫の呵責に入る。/ われを過ぎる者、滅びの民に伍する。/ 正義は高き創り主を動かし、/ 神威は、至高の智は、/ 始源の愛は、われを作る。/ 永遠に創られしもののほか、わが前に創られしものなく、われは無に立つ。/ われを過ぎんとする者、すべての望みを捨てよ。
しかし、地獄の門をくぐり抜けたらすぐ、悪人全員が三途の川の渡し舟に乗って地獄本土に上陸できるわけではない。地獄門と渡船場の間には、「地獄の前庭」と呼ばれる場所があるのだ。
「師よ、私の耳を導する音は何ですか?苦しみにかくも打ち / のめされているように見えるこの人々はどんな人たちですか?」/ すると師は、私に答えて言った、「この惨めな様に / あるのは、誇りもなく誉れもなく生きた / 恥ずべき魂たちだ。/ 彼らは、神に逆らうでも、仕えるでもなく、/ ただ自分のためだけに存在した / あの卑法な天使の群に混じっている。/ 天は、美しさが損なわれるために、この者たちを追い払う。/ 地獄の深淵も、同じく、受け入れはしない、/ 悪党たちがある種の誉れを感じるからだ。」/ それで私は尋ねた、「師よ、何故にこの者たちの罪はかくも重い / のですか、こんなに激しく嘆き悲しまねばならないほど?」/ 師は答えて言った、「手短に言おう。/ この者たちには死の望みがないからだ、そして、/ その盲目の生が低劣極まるゆえに、今の運命以外なら、/ どんな運命[罰]さえも羨ましく感じるためだ。/ この世は彼らの名が残ることを許しはしない。/ 慈悲も正義も、彼らを蔑む。/ 彼らの話はもう止めよう。ただ見て、通り過ぎよ。」(...)私は一人の魂を見たが、それが怯懦のために大いなる位を棄てた者だと判った。/ 即座に了解し、私は納得した、/ これが、神にも神の敵[悪魔]にも嫌われている / 卑法な群であることを。 / 一度も生きたことのないこの卑しむべき者たちは / 真っ裸で、そこにいる話や蜂の大群に / 刺しまくられていた。
褒められたことも貶されたこともなく無気力に生涯を送った者たち、生前に良いことも悪いこともしなかった者たちは、彼らは善人でないゆえに死後に天国は勿論のこと、悪人ではないゆえに地獄にさえ、三途の川を跨ぐことさえ、受け入れてもらえない。しかるに、かれらは「神にも神の敵[悪魔]にも嫌われている」のであり、世界の狭間でその生を送ることしかできないのであった。
続いてダンテとウェルギリウスが差し掛かるは三途の川とそれを渡し守を担うカローンであった。カローン(古希: Χάρων, Charōn)とは、ギリシア神話に登場する冥界の河ステュクス(憎悪)あるいはその支流アケローン川(悲嘆)の渡し守であり、地下世界の暗黒神エレボスと夜の女神ニュクスの息子である。
彼らは神を呪い、自分たちの始祖を、人類を、生まれた場所と時を、彼らの種の種[祖父母]を、自分たちを生んだ両親を罵っていた。
第四歌:第一の圏域〈辺獄(リンボ)〉
第五歌:第二の圏域〈肉欲の罪〉
今や私は、膨大な嘆き声が / 私を打つところへとやって来た。/ あらゆる光が沈黙する場所へ、/ 嵐の海が相反する風に叩きつけられてうなりをあげるように、/ 咆哮する場所へと私は着いた。/ 永遠に休むことなく吹きすさぶ地獄の暴風は、/ 霊たちを荒々しく拉し去り、(あらゆる方向へ)ぐるぐると / 旋回させては互いにぶつけ合わせて、霊たちを苦しめていた。/ その破滅の渦を前にすると、魂たちは / その瞬間、阿鼻叫喚の叫び、泣き声、嘆きをあげ、/ その時、神の権能を呪うのだった。 / 私には判った、このような烈しい責め苦に遭っているのは、/ 理性を愛欲の下に従属させて[理性が愛欲に打ち負かされて]、肉欲の罪を犯した者たちであると。
このようにして第二の圏を占める「地獄の暴風」は「寒い季節、空一面に広がり、群なす / 椋鳥たちを、翼が運ぶように、/ 過てる霊たちを、その烈風は / あちらこちら、上へ下へと運び去っていた」。そこには「休息どころか、呵責の軽減も、/ いかなる希望も、彼らを慰めることは決してない」。そしてそのなかからある一群の「鶴たちが哀歌を歌いつつ、/ 空に長く一筋の列をなして飛んでいくように、/ あの苦問の疾風に運ばれて、幾つかの魂が/ 嘆き声を発しながらやって来るのを見た」。ウェルギリウスはその魂の数々、罪のひとつひとつをダンテに説く。
あの群の先頭を行く魂は、かつて / 多くの言語を話す国[バビロニア地方]の女王だった。 / 情欲の虜となり果てたこの者は / 各自が好きなことを行うは合法であると法に謳った。 / こうして自ら招いた世の非難を消そうとしたのだ。 / 彼女の名前はセミラミスだ。物の本によれば、 / 彼女はニノス王の后であったが、王の死後、その後を継ぎ、 / 今、スルタンが支配している地域を治めた。 / 次に見えるのは、愛ゆえに、自害した女性だ、 / (夫)シュカエウスの遺灰に誓った操を破って。 / その後にやって来るのは、愛欲のクレオパトラ。 / ヘレネーも見えるだろう。彼女のために、長き禍難の / 時が巡った。また、偉大なるアキレウスが見えよう。 / 彼も、最後には、愛と闘ってくれた。 / パリスやトリスタンも見える。」
するとウェルギリウスは「彼らが私たちの方へ近づいて来る時を / 見はからって、その機に、懇願してみるがいい、 / 彼らを引いてゆくあの愛の名にかけて、彼らは来てくれよう」というので、ダンテはその罪の様相を知るまいと「おお、音意に背まれし魂たちよ、私たちと / 話しに来てくれまいか。かの方 [神]がお禁じにならないなら」と彼らへと呼びかける。すると「鳩たちは、(巣に残した雛鳥の)願望に呼ばれると、/ 翼を広げたまま羽ばたかず、大気の中をよぎって愛おしい / 巣へと、自らの意志に運ばれて[いとも軽やかに]向かうが、/ ちょうどそのように、二人はディードーのいる群から離れ、邪悪な[地獄の]大気をよぎって私たちのところへやって来た」。そしてその魂たちは「今、風が私たちに黙していますから、その間に、/ あなた方がお聞きになり、お話しになりたいことを / 私たちはお聞きし、あなた方にお話し致しましょう」、とその境涯を話し始めるのであった。
私が生まれた主は、ポー川が / 共のもの[支流]たちを引き連れ、平安を求めて / 降りゆく[流れ込む]海の辺に憩っております。/ 愛は、高貴な心に、たちまちのうちに点ずるもの、/ 恋の焔は、私の美しい体によって、この人を捉えたのです。/ その身は奪い去られましたが、今もその激しい愛は私を貫いています。/ 愛は、愛される者が愛し返さぬことを許さぬもの。/ 私は、この人の悦びにかくも強く関われたあまり、/ ご覧の如く、その愛は、今も私を捉えて放さないのです。/ 愛は、私たち二人を、同じ一つの死へと導きました。(...)私たちの愛の、最初のきっかけを / それほどまでにお知りになりたいと願われるならば、/ 泣きながら語る者のようにお話し致しましょう。/ ある日のこと、私たちは慰みにランスロットの物語を、/ どのように愛が彼を捕らえたかについて、読んでおりました、/ 二人きり、どんな危惧も抱かずに。/ 読み進むうち、その物語に誘われて、幾度となく私たちは / 眼と眼を交わし、そのたびに、顔色を変えましたが、/ あの刹那、ただあの一節が私たちを打ち負かしてしまったのです。/ 恋人が、かくも深く愛し、かくも長く焦がれた、あの / 笑みこぼれる唇に、口づけする条を読んだとき、/ 私から永遠に離れることのない、この人は / ふるえつつ私の唇に接したのです」。