アナトール・フランス
『生の不条理』
人間にその存在理由とその窮極の目的とを教えることはもろもろの宗教の力であり慈悲である。
『哲学的悲哀』
哲学的悲哀は一度ならず陰鬱な華やかさをもって表現されて来た。高度の精神的美に到達した言者たちが浮世を棄てた生活の喜びを味わうように、学者は、われわれの周囲にあっては、すべてが外観と欺瞞とにすぎないことを確信して、あの哲学的憂愁に陶酔し、穏やかな絶望の怡楽の裡に我を忘れる。これは深くも美しい苦痛なので、この苦痛を味わったことのある人々は、この苦痛を、世俗の軽供浮薄な浮かれ騒ぎやむなしい希望と取り換えようとはしないであろう。そしてそれらの思想は、その審美的な美しさにもかかわらず、人間と諸国民とに害毒を及ぼすとなす反対論者たちも、あまねき幻想と万物の流転とを説く学説を示して見せられた暁には、それらの思想を呪うことをおそらくはやめるであろう。この学説はギリシア哲学の黄金時代にクセノファネスとともに生まれ、開化洗焼された人類の幾時代にわたって、最も高度で、最も晴期な、最も甘美な知性の人々-デモクリトスとか、エピクロスとか、ガッサンディとかいった人々に承け継がれて永遠に存続しているのである。
これはスタール夫人が北の文学と呼ぶ深い哲学的思索へと我々を導くメランコリックな詩情に近しいように思える。