▽「みんなもこう呼ぼうぜ」に対する抵抗感
経緯
関連
nora.iconとてもよくわかる。「わかる」ボタンをズダダダダッと押す勢い。
nora.icon自分のためのタイトルをつけられないことと、他人に提示するものに名前をつけたくないことは、厳密には違う話だろうけども(と最近思い始めている)、実践にあたり養うべき能力がほぼ同じであるために苦手となったら両方苦手になるのかもしれないという気がしています。
nora.icon「自分が考えたこと(しかし公に発表はしていないこと)」の居場所が、発表前だから自分のテリトリーの中にあるというものなのか、考えて形にしてしまった時点で既に自分とは切り離されてそこに存在する概念になってしまっているのか、ということが「自分のためのタイトルをつける」の難度に関わる感。
nora.icon(「公に発表はしていない」というのは、本を出すなどによって明らかに自分から離れた人々にまで届く可能性のある発表の仕方はしていない、という意味で、読み手がある程度の範囲に収まっている個人ブログやTwitterでの言及は除くというニュアンスです)
nora.icon自分の所有物でないものに名前をつけるということが、「ただ私はそう呼ぶというだけ」に留まるのなら抵抗はない(と割り切ることも気持ち次第で可能である)が、「私はこう呼んでるしみんなもこう呼ぼうぜ」になりだすと、なんだかとんでもないことをしているような気持ちになってくるというのがある。
nora.icon「自分の所有物でないもの」の話だから、自分が作り出した作品や概念(メソッドなども含む)に名前をつけて「この子はこういう名前なんですよ」と言うのは別になんとも思わない。それが能力的に不得手なのは単にそうすることに慣れていないだけで、心理的抵抗があるわけではない。
nora.iconただ概念に関しては「一応私は私の中で生み出したが、他の人も生み出しているだろうし、そもそも世界に存在しているはずのものだろう」と感じ始めると命名が心理的に厳しくなってきますね。命名しないことにはどうにもならないんだけれども。(ブログの内容そのまま同じことを言っている)