▼名付けとメタファーは近くて遠い
論点が混在している(整理と追記)
私は名付けではなくメタファーで物事を理解している(気がする)
名付けとメタファーは近いところにあるが遠い気がする
名付けるためのメタファーと、名付けないためのメタファー(というかシミリー)がある
「メロンパン」か、「メロンのようなパン」か
名付けないためのメタファーとは
何かを捉えるにあたり複数のメタファーを用いて炙り出すようにすることで、特定の名前を持たせずに認識するということ
名付けの必然性は基本的にその名付け親の中でしか通用しない
気分が共有できなければ名付けは馴染まない
(馴染まなかったので大学の勉強が嫌になった)(という個人的な恨み)
名付けは上から目線なところがある
自分の支配下にあるものへの名付け(子どもや作品、提唱している理論etc)
他のイメージを持ち得ないので私でもすんなり受け入れられる
自分という存在とは直接関係ないものへの名付け(概念、法則etc)
イメージが競合する
名付けという行為自体が、対象を命名者の支配下に置くということを意味している気がする
例えば自然科学での「○○の法則」は、大抵人間の存在とは無関係にあるものなのに、先に発見して発表した人のものであるかのように扱われることになる
nora.icon色々な人が色々な名付けをして色々なものを説明しているけれど、自分以外の人間と認識を共有して扱うために名付けが必要だとわかっていながら、私は名付けによって何かに対する理解が深まった実感をほとんど持ったことがなく、結局自分のイメージを描写してその塊で認識するしかないと感じている。 nora.icon名付けの必然性は基本的にその名付け親の中でしか通用しない(ただし名付け親は個人とは限らず組織単位とかの場合も当然ある)。名付けの経緯を理解はできても、その気分を共有することが難しいので、その事物についてその名付けを用いることが自分の中でいつまでも自然なものにならないことがある。
nora.icon名付けという行為に適応できなかったせいで大学の勉強が嫌になったところがある。
nora.iconでも名付けは絶対に必要なんですよね。それは疑う余地がない。
nora.icon広く「名付け」と言ってしまったけど、新たに作った概念につけられた名前は基本的にすんなり受け入れられる(他のイメージを自分が持ち得ないので)。しかし、その名付けとは関係なく遥か昔から存在していたはずのものに名付けをするときに自分のイメージと競合してしまうことがしばしばある。
nora.icon例えば心理学に○○の法則みたいなのがあったとして、それに私自身が当てはまるとき、私が持つ性質を指すものとして外から名付けられたその何とかかんとかを受け入れるのは結構抵抗が生じることがある。「こういうときにはこうなります」という説明なら「なるほど!そうなのか!」と普通に納得する。
nora.icon名前をつけるという行為はある種の上から目線で(と私は感じていて)、私はこういうものを作りました、そしてこう名前をつけました、は普通に受け入れられる―というか受け入れる受け入れないという選択がそもそも発生しないけど、自分とは無関係に存在するものに名付ける行為に抵抗が(しかし必要)。 nora.iconなんでそんなに嫌なんだろう?🤔