名付けの必要性と限界
アウトラインの元と経緯
「知的生産」に対する"イメージ"がバラけている
そもそも名付けとは
1. 愛を込めるもの
友人や恋人のあだ名、ペットや愛用品への命名
自分のサイトやHNの名付け
2. 情報共有のためのショートカット
「これの話をしているのだ」を端的に伝えるもの
スムーズなコミュニケーションには必須
しかしショートカットしても意味が相手に通じることが絶対確かという場でしか通用しない
了解が取れている同士の空間を予め構築する必要がある
そうでないなら、面倒でも共有したい情報を毎度正確に言い表すのが意思疎通の上では吉であろう
不特定多数が相手のオープンな場でのショートカットは、他者の思い違いの処理コストが高くなりすぎる
「知的生産」の四文字の限界
「知的生産」の四文字は、知的生産が指すところの行為が先にあって、後から「この範囲を知的生産と名付けよう」というふうに名付けられたものである(はず)
その経緯を知るのは、梅棹忠夫著『知的生産の技術』を読むか、それに基づいて喋っている人間の話を聞いたかした人だけ 「知的生産」の四文字を見ただけではその背景やニュアンスを感じ取ることはできない
しかし「知的生産」の四文字は『知的生産の技術』を離れて独り歩きし続ける
「知的生産」という名前とは一切関係なく知的生産はこの世に無限に存在している、ということが忘れられていることがある
知的生産は、「知的生産」の名のもとに自然と集まっては来ない
知的生産という名を使わなければ、その行為について考えを共有することが難しい
表現が乱立して思索が集約されていかない
一方、「知的生産」の四文字の字面と自分に縁を感じなければそれだけで議論への参加が躊躇われる
自分がせっせと書いているこの文言の数々は「知的」なのか? 「生産」なのか? という疑問
梅棹忠夫氏はそういう疑問を生じさせるためにこの四文字を選んだわけではないにしても
「定義」と「印象」は別の経路で形作られてしまうもの
だからネーミングというものは、その両者が一致するように練られなければならない
(「知的生産」というネーミングが駄目だと言いたいのではないです)(その言葉が生まれた時代背景のこともある)(そして今現在それ以上に何があり得るかというと何も思い浮かばない)(外国語由来の横文字は勘弁してほしい)
自分と縁を感じにくい命名
「知的生産」に限らず「自分と縁を感じにくい命名」は世の中に溢れている
縁を感じない場合、名付けがあるせいでかえって理解から遠ざかる事態を招いている
その無縁感は、単に勉強不足なだけだろうか?
実感として、勉強しても縁を感じないものは感じない
8割方は勉強によって溝が埋まるかもしれないが、なんともならないレベルのものがある
イメージの抱き方は「個性」の範疇であり、埋まらないものは埋まらない気がする
日本語の難しさ
こういう日本語的表現の特徴は、一般のものと個人のものをうっかり混同して扱ってしまう概念操作の誤りをリードしてしまうのではないか。
たとえば、「タスク管理」として抽象化・一般化できる部分と、「hogehoge's タスク管理」として個人のものとして扱われるのが好ましい部分とが混ざってしまう(分けよう、という発想になりにくい)