自分が仏教徒だとわかった
「集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した」を読んで、自分を仏教徒と呼んで良いことがわかった
その根拠を説明できるようになったことは心強い(後述: 破僧の定義変更)
今までの流れ
1: 子供の時になんとなく「親がやっている儀式に参加する」という形で仏教に関わり、それを漠然と「仏教」Xと捉える
2: 成長して自分の考えYがはっきりしてくるにつれて「この考えXは自分の考えYと違う」と思うようになる
3: 仏教に関して学ぶうちに「日本でよく見る仏教と『釈迦の仏教』は区別すべきでは」という気持ちが自分の中に芽生えた
2024-08-31自分の宗教観
(3)に「大乗非仏説論」という名前がついてるのを知った
p.102
富永仲基 / 江戸時代中期の思想史家 / すべての仏教経典は歴史的に実在した釈迦一人の教説に基づくものではなく、各時代の宗教的ニーズに応えて、後代の作為が順次付け加えられて成立したものだと論じた / 大乗非仏説論 / 今日では学界の通説となっている
当時は仏教界の猛反発があったが本居宣長は絶賛した
ではその「釈迦の教説でない今の仏教は仏教なのか?」となる
これに紀元前3世紀のアショーカ王による「破僧の定義変更」が関連する
p.24
「摩訶僧祇律」という古い書物の中に「サンガ内に、もしお釈迦様とは違う解釈を主張する者が現れて悶着が起こったとしても、同じところに共住し、集団儀式をともに行っているかぎりは破僧ではない。別々に儀式を行うようになったら破僧である」といった意味のことがはっきりと記されています。
p.25 阿毘達磨倶舎論 - Wikipedia 5世紀
さらに『摩訶僧祇律』よりずっとあとに書かれた『倶舎論』という仏教哲学書には、破僧には二つの定義があることを述べた文章が見られます。「破僧には二種類ある。一つはお釈迦様の教えに背く教義をとなえることであり、これを破法輪(はぼうりん, チャクラベーダ)と呼ぶ。もう一つは儀式を一緒に行わないことで、これは破羯磨(はこんま, カルマベーダ)と呼ぶ」
つまり「おなじ集団儀式に参加するなら、仲間である」という定義
(もちろんこれは釈迦入滅後の話なので、これ自体を認めない派もある。僕は「明示的に『釈迦の仏教』と呼ぶ時はこれを認めない狭義、『仏教』と呼ぶ時はこれを認める広義、僕が帰依するのは後者」という立場)
自分の集団儀式への参加
2024-09-03北海道に妻の祖父の一回忌に参加してきたのだが、これはつまり集団儀式への参加
白骨の御文が読まれていたので浄土真宗なのだろう 白骨 (御文) - Wikipedia 浄土真宗本願寺八世蓮如
自分の母の方は法華経を勤行するから日蓮正宗なのだろう 勤行 (日蓮正宗) - Wikipedia
先日大嶺登山2024してきたのは修験道で、真言宗のお寺で真言宗だけでなく天台宗の人たちと儀式をした
逆にアルボムッレ・スマナサーラ - Wikipediaの本で初期仏教に興味を持ったんだけど、そういえば本を読んでいるばかりで儀式に参加したことはないな、近いうちに参加しよう。これはテーラワーダ仏教
これはつまり、人は複数のコミュニティに参加できる、その参加がアイデンティティを形成する、ということ
Plurality的だね
2025-07-24
儀式的には大乗仏教の人と一緒にやるけど、思想的には大乗仏教ではない
釈迦の利他