不安耐性
「不安耐性」という言葉が面白かったのでどういう使われ方をしているか調べてみた
「不安耐性」という言葉は、人によってはマインドセット的なものに限定しているような捉えられ方をするようだ
不安耐性の低い人で組織を作っちゃうと、大本営発表でマネジメントするしかなくなるんですよ。 で、体感的に不安耐性の低い人は6割くらいいるから、普通に人を集めて組織を作っちゃうと、大本営が必要になっちゃう。
だから、採用と組織には最新の注意を払わないといけない。
マーティンセリグマンによると
メットライフ生命は楽観的な説明スタイルを持つ人たちのチームを作ったら他のセールスチームより57パーセントも売り上げが上回ったので 採用基準を説明スタイルが楽観的かどうかに絞ったら市場シェアが50パーセント近く上昇したらしいですね
で、不安耐性が低い人には情報は降りてこなくなるんですよ。
新しいことをやろうした際に、プランのレベルのモノに不安を感じて、不満を募らせたり、自らの不安を解消しようとして、情報を漏らしたりするから。
だから、不安耐性が低い人は情報的に隔離され、大本営発表でコントロールされる。
不安耐性の低い人とは別の話題かもしれないけど、「許可を求めるな謝罪せよ」における『許可』と「行動するなら筋を通すべきだ」の『筋』を全く同一のものと認識している人はたまにいる気がする。筋を通すものの許可は求めないみたいな状況はありうるので、別物なんだけどね。 「こういうことをしようとしていて、もしかしたら迷惑をかけるかもしれないので、先に謝っておく」は『筋を通す』にあたると思うけど、許可を求めると「もしかしたら迷惑をかけるかもしれないので許可を出せ。許可を出したが最後、俺たちは悪くないお前が悪い」に変質するのでそれこそ『筋が悪い』。
「ゼロリスクは無理、トレードオフで物事を考えろ」と唱えてもそれを日本人の大多数に浸透させるのは無理でないかと最近考えてる。日本人に限った話じゃないんだが、自己肯定感の低さ→不安耐性の低さ→ゼロリスク志向、という連鎖は人間心理として避けがたい。そして日本人は自己肯定感がのきなみ低い まあしかし、日本社会の仕組みとして、個人を幼少時から不安耐性が低くなるように育て、「自分だけ他の人と違う」などの不安を道具として使って個人をコントロールし社会を維持する、みたいなメカニズムが強く働いており、それが社会を効率化してる一方でいろんな不幸を生んでるとは思う もちろん私は「この世は公正ではなく、善行が報われるとは限らず、悪行に天罰が下るとも限らない。しかしそういう不公正な世界でも、私は自分の意志で敢えて悪行を拒否し、善行を行うのだ」と考える意志の強さを皆が持つのが理想だと考えているが、現実にはかなり難しい 「人間というのは意志が弱く不安耐性も低いのが普通」という問題をある程度緩和するために人類が進化の過程で獲得したのが公正世界仮説であり、人類はまだこれを捨てられる域には達していない、というのが私の見解