丸暗記している人は掘り下げられない
2017-06-09
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掘り下げの例
「AならばB」という概念があったとする
「なぜAならばBなのか?」と疑問に思ったとする
「AならばC」「CならばB」だから「AならばB」と発展する
「AならばC」「CならばB」の2つのブロックの上に「AならばB」が乗っかっているイメージ
さらに「なぜAならばCなのか?」「なぜCならばBなのか?」と疑問に思ったとする
「AならばD」「DならばC」「CならばE」「EならばB」の4つのブロックの上に乗っかるイメージ
疑問を持たずに「AならばB」を丸暗記する人もいる
誰か別の人が「AならばB、がわからない」と言ったとき
丸暗記の人は「AならばB、この教科書にそう書いてある!」と言うことしかできない。
掘り下げて理解した人は「AならばCなのはわかる?」と質問することができる。
あいてがわからなくなるところまで、自分の掘り下げの経路をなぞって掘り下げていくことができる。
「賢い人はわかりやすく説明できる」という命題が真か偽かって議論がある
これは問いの立て方が雑
何がわからないのかを突き止める能力があるかどうか
「なぜか?」を繰り返して自分の中に「積み上げたもの」がある人は、他の人が「わからない」と言ったときに「積み上げたもの」を下りながら質問していくこと(=掘り下げること)ができる。
丸暗記している人にはそれができない。
それと「限られた時間で教えられるかどうか」は独立の話
この図では「A→B」を理解するために6つのブロックが支えとして必要で、このブロックを何一つ持ってない人は当然6ブロック分の時間コストを払わなければいけない。
「わかりやすく1ブロック分の時間で教えてよ」という要求に対してはNOと答えるしかない。
紛らわしいことに、そのシチュエーションでは「多くの人がA→Bだと納得するようなたとえ話を丸暗記している人」は1ブロック分の時間で「わかった気にさせる」ことができる。
「わかった気になった人」は当然「掘り下げることのできない人」になる。
教えてもらった話をオウムのように繰り返すことしかできない。
ここで比較しているのは「A→Bである!教科書にそう書いてあったから!」という人と「A→Bである!例えば~や~という例がある」と掘り下げることができる人
掘り下げの仕方に「AならばC、CならばBだからAならばBである」を使うのか「A→Bである例に~や~がある」を使うのかは区別していません。
2通りの掘り下げ方に(議論の利便性のために)「演繹での掘り下げ」「帰納での掘り下げ」とラベルを振ることにすると、世の中には帰納での掘り下げが論理的に正しくないという理由で演繹の方が優れた手法だと考える人が居るけども、演繹的に掘り下げていくと最終的に「公理」という作業仮説にたどりつくので、どっちもどっち。
Q: 「A→B」を説明するときに,それとは違う,理解しやすい「P→Q」を説明して,「同様に」で「A→B」を納得させて「分かりやすい説明」とするのはよくないことか?
A: 教わる側が「なぜここで『同様に』でよいのか」(例えば、共通の構造があるから、など)を理解してない場合は、どういう時にその「同様に」を使ってよいかがわからないですね。理解しているなら問題はないと思います。
最初にこれを書いたときには「1ブロック分の時間でわかった気にさせること」に対して否定的な気持ちだった
しかし、どこまで掘り下げても論理的に正しいことが担保されないのであれば「1ブロック分の時間でわかった気にさせること」を批判するのは適切ではないのかもしれない。
「学ぶ時間」は限られたリソースだから。
「わかった気にする」に価値を見出すと考えると、否定的な気持ちになるが、「わかった」という気持ちにさせることで、対象がその概念を記憶し、応用して成果を出せるようになるなら、それは有用であるのだから正しい。see プラグマティズム 関連