DJ的な作品の循環
code:DJ的な作品の循環
DJ的な作品の循環とは過去の作品について読者が解釈を加えていくことで時代ごとに作品を改変していくことです。このようにある種過去の作品との対話によって成り立つ芸術の連続的な再解釈によって、作品のあり方は時代とその鑑賞者が残したものによって多様になります。
作品制作における次数
一次創作
二次創作
N次創作
https://gyazo.com/d7060862e361d43d0dd81a5c2d43e11a
自然:1
芸術(inspired by 自然):2
文化(inspired by 社会):3
創作(inspired by IP):4
これを踏まえて、DJ的作品の循環において
DJ作品(リミックス)は2次創作でとまるか?
つまり、DJ作品を受容して、それを受けてそのDJの2次創作はありうるのか、ということ
二次創作の二次創作の二次創作の二次創作の…
派生していく単純なN次創作というより、上書きされまくって元作品とほぼ関係ないDJリミックスとかできたりするような<まじかるバナナ的な創作>ってあるの?
実際あっても、もはやあえて派生とも言わなさそう
たぶん普通の意味での作品制作が現実的にはこれにあたるのか
インスピレーション
リファレンス
これを敢えて意識的にやるようなコンセプトをもった作品制作があってもよさそう
ちょっとメタ的ではあるけど、あくまで「二次創作の二次創作の二次創作の二次創作の…」にこだわる
できたとしても持続可能性があまりなさそう?
元作品がなんなのか分からなくなる領域へと到達するときに、新しい作品あるいはオリジナルなきオリジナル、あるいはオリジナルなきコピー(つまりシミュラークル)的作品へと循環していくだろうか
単にN次創作的なDJリミックスは一般的にありそう
一次創作と二次創作...の要素を複合的にリミックスとか
いい具体例がパッとでてこない...
そしてそれが可能なとき、私たちはオリジナルとコピーの対立がどうでもいい領域まで到達できるか
レトロニムの逆は可能か
オリジナルとかコピーとかいう言葉が使われなくなって消え去る時代はくるだろうか
つまり言葉が消え去ること
https://gyazo.com/95cfcd1e309782c8e34d17dd5bdccf67 https://x.com/hedalu244/status/1424933331502649350
オリジナルとかコピーとかいう言葉自体が消えるというのは、レトロニムの逆とはちょっと違うのか
概念忘却
中動態、とか
そしてそういうDJ的作品循環の時代において作品を創ることの実践形式、スタイルが変わっていくのだろうか
たぶんいつの時代も「大きな物語」としてのマジョリティ(教科書、歴史編纂、教育、ブランディング...)はあるし、それに対するマイノリティがそれにあたるのではないか
基本的にはこの流れは変わらないだろうか
作品受容、制作の一つの仕方が生まれるだけ?
短期的には元作品からのインスピレーションというかたちで創るしかないのだから
(長期的に起源が遡れないということはあるとしても)
ニコニコ動画:コンテンツツリー
https://gyazo.com/cb9dcae1ac71c2b0a24a0e161ebefa85
コンテンツツリーは「起源」を固定化する?
ある種の権威化への道を開き得る?
実際的な運用としては、紳士協定的に使われ、コミュニティの形成に役立っている ニコニコ自体はそこまでスケールしていないので現状でも権威化されるほどでもなさそう
ミームの「元ネタ」としてくらいは機能している
元ネタ警察
大陸哲学(たとえばハイデガーなど)のやり方として、原義に遡ってそこから展開を始めることが多い
人文系の論文の出だしで、概念整理ということで、原義は〜〜と手軽にやりがち
学部生の卒論文字数稼ぎのTIPSとしての側面
「起源」という概念自体、ある種のフィクション
神話、万世一系、伝記
伝記とか自伝で語られる起源(人生の分かれ道とか分岐点とか、ターニングポイントを語るとき)は、あくまで「後から見て」というしぐさがある
実際はおびただしい数の無数の出来事があり、抱えきれないほどの時間がある
オリジナルというのは人を安心させるのだろうか
アートの定義:「ありがたみ」
ヴァルター・ベンヤミンのアウラ概念
まだまだ健在
人はそこにおいて
オリジナルなきコピーとオリジナルあるコピーを区別不可能なのだから
ひとつの説得力として、フィクションであるにせよ起源なるものをとりあえずおいておくのだろうか
(ありがたさによる芸術化Artinization)
創造することにおいて喜びはなにか
なんのために創造するのか
大文字のARTをいったん見失うとき、セラピーとしての創造がある
(自己療養として、自己の不安をまぎらわすための創作行為)
→歴史化とは距離を置くこと
→署名することから距離を置く、極めて個人的な行為
→ブランディングはない、つまり他者に評価不可能な、生活の実践のひとつ
→つつましやかな生活行為としての芸術
福祉としてのアート
code:福祉としての音楽
プレインミュージックも基本的になんか福祉みたいなのはベースにありますね
(…)
学びにはバリアフリーが難しい部分がいっぱいある
そこをなんかプレインミュージックでバリアフリーにしたいっていうのもある
アウトサイダー・アート
→アートワールドどうでもいい
→俺たち芸術じゃなくて工芸でええやんか?
でも飯は食いたい
飯を食うために他者、あるいは社会に評価されて、仕事もらいたい
Dayjobとしての芸術と個人的な生活行為としての芸術の二枚舌外交
飯を食うために、とりあえず、俺の作品のブランディングをする
こういう自己か(大きな)社会かという二項対立で考えるのはあまりにセカイ系すぎる
その中間の小さなコミュニティ=パーティを作って、そこで活動するということもある
小さな共同体、あるいは島宇宙
それぞれのジャンルにおける文化、名前のついた島宇宙(ジェネラティブアートとかインディペンデントアニメーションとかメイカームーブメントとかなんとか)に参入して、それらを行き来=ホッピングすることで、文化の豊かさを享受し、耕していくこと 自閉的な自己を「半開き」にしていくこと
ここに創造の喜びがある
大きな「芸術の歴史」(The Story of Art, ゴンブリッジ)とは、個人においてはとりあえず留保される
大きな歴史は批評家がやってくれればイイ
大きな歴史の意義
何かを創造しようとする人はたしかに最初は「大きな歴史」から入っていって、だんだん小さな島宇宙を発見していき、そこをホッピングしていくようにならなければいけない ここで言いたいホッピングというのは、
よくちまたでも多分野横断とか学際とかなんだとかいわれるけど、
その内実をみてみると世界共通語で話してることが多い
そうではなく
ピジン語でホッピングすること
英語からピジン語、あるいはイディオグロシアへ
あるいはイディオグロシアからピジン語、英語へ
言語自体もホッピングすること
少なくとも、こういうスタイルでやること
そういう実践にこそ創造が開けるんじゃないかなあ
いつまでも「大きな歴史」にとどまることは、スノッブでしかない
だから、「大きな歴史」の意義は、小さな島宇宙へと向かうための、見取り図やきっかけとして読み替えることではじめて人は創造的になっていくし、豊かな文化に出会え、参入することができる
その意味で、「大きな歴史」は、新参者に開かれているので、よいものである
だが、それは読み替え可能で柔軟なものとして受け取られなければいけない
権威あるものとして内面化してしまったとき、閉塞的なものになる
大きな歴史の読み替え
ではどうしたらそういった柔軟な読み替えが可能になるか、つまり個人個人は各々の島宇宙をホッピングする脚力をどうやって身につけるか ある種、教育とかかわってくる
良き師に出会えることがいい
先立者に出会えれば幸いである
ハイパーリンクシステム
Wikipediaのようなハイパーリンクシステムを活用していく価値がある
ハイパーリンクの適切な享受こそ、個人を自由にし、あるいは豊かなものにする
Scrapbox / Cosenseはこのハイパーリンクのホッピングが個人で作りつつできるので楽しい
ハイパーリンクとAIによる誤配の可能性
インターネットやWebが最初には持ち合わせていた可能性(そして21世紀のSNSで閉塞化へと失敗してしまった)を、生成AIに豊かな可能性を見出すとしたら、AIによる誤配、つまり知りたいと思ったことを聞いたら思わぬものが返ってきたということに直面すること
ハイパーリンクのAIによる誤配
これはひとつ、AIによる人間を豊かにしうるひとつの面白い可能性なのじゃないか
ハイパーリンク的AIが欲しい!
これ作りたい...
映画のことを聞いたらなんか彫刻のことが返ってきた、みたいな。
で、さてその誤配をどうやって受け取るべきだろうか、人間は。
AIによるハルシネーション、単純なミスと思われてしまったら、受け取る可能性が閉じる
映画館にいったら彫刻作品がシアターにあった
それを人は適切に鑑賞できるだろうか
もし鑑賞できるようになれれば、こんな豊かなことってない
単純に誤配するだけ(お届け)ではなく、適切に誤接続をもしないといけない
配るだけでなく、接続することで意味をもつ
誤接続とはたとえば「類似」によるつながり
(松田正行「眼の冒険」、橋本麦「かむかもしかもにどもかも」MV)
https://youtu.be/IrS-QTLvxjA
たとえば
Wikipediaのランダム表示で、千葉県がでてきたとする
でも俺は千葉県史とか地域とかにべつだん興味ないからそれだけでは接続はうまくいかない
もしそこに「千葉県型メリケンサック」が情報として連なってたら、めっちゃ面白い、となって接続される
https://gyazo.com/6e5145b65be32acdb350ed10b0ffdecf https://www.instagram.com/p/Cp-Fr_-vVhy/?img_index=1&igsh=MThlcGdva2YzMGlhdQ==
デザインの仕事
ここにデザインの仕事がある
デザインは、誤配されたものを接続する力をもつ
(極めて資本主義的に悪用されるとデザインは「ダークパターン」になるので注意) 誤配だけでは不十分で、誤接続するデザインが必要
そこに人間の創造性がありうるところでもある
(一種のキュレーションともいえる)
それを提示できるような生成AIがあれば、めちゃいいのでは?
https://gyazo.com/e646b4ec210fc0fd91ba1ac4d5fcc154
「類似」による接続の場合であれば、ハルシネーションばっちこい
つまみぐい
それは、読書家における読書とおなじ
東浩紀が読書の効能としていっていたのは、単に情報を読み取る読書というものも勿論あるが、文章とともに一緒に考える読書というものがある、と
それは極めて創造的だろう
読書をしているときに気になっているワードやフレーズ、概念にひっかかって、そこで本を閉じる、あるいは投げやる
そして別の方向性に飛んでいく
そのとき本を「読了」する、みたいなことはどうでもよくなる
つまみ食い読書とはそういうところに価値がある
NFTの「作品のDJ的循環」が、適切な仕方でうまく動作するためには、もちろん上で語ったような創造的態度がスタイルとして身についた人たち(「検索」をする人、『弱いつながり』)はうまく受け取れるが、そうでない人たちが接続されるためには、草の根的だが、もうそこは人と人の直接的なやりとりが必要だろうか
たとえば小さなギャラリーで作家と語り合うような空間:neort++
そこで作家と対話することで作品が含み持っていた豊かさと接続し得る
そんなこと考えていたんだ、面白い!となる