文化資本の水平伝播
家庭環境や師弟制度における、垂直的な知の継承に対して、水平伝播が大事なんじゃないか
少なくとも僕はそうだった
あらゆるSNSがメタクソ化し、平川哲生さんがいつかのXで仰ってたように、本当に大事なことは対面でしか受け取れないし、語れない状態になっていくことに、ふんわりとした危機感を感じる そういう場に居合わせないと、いろんな意味での「手掛かり」に触れられず、オンラインスクールに課金したり、gen AIに模倣され得るようなクリシェに収斂進化したり、ギグワーカー化する
いつでも自分はそうなり得たし、これからもそういう可能性がある
美大での講師業を断るのは、もうそこにリーチできたんだから自走できんじゃん、みたいなところがある
中村佑介さんや桜井さんはそういう動きをしているよね
ものづくりをしたいから、ソフトを覚えなきゃいけない、だから専門学校にいかなきゃ、的なの。実学であること、合目的性、一元的な巧拙の絶対視みたいなのを、まろやかに攪拌する乱流の源があってほしい
ネットアート
ビデオサロンのwebinnarに出たのはそれ 司会の方にすらあんまそのエッセンスが伝わってなかったけど
ある程度楽観的ではあるんだけど、それもいろんな人達が、かなり意識的に大学や会社といった共同体の外に、だらしのない公共知として漏れださせてきた歴史ってのがあって、それって実はすごく大事だったんじゃないか
衝立越しに聞こえるくらい?
ゼミや会社、Discordは防音性が高すぎる
少なくとも自律的な最適化を委ねられるほど、自由市場を信じていない
既知の良さの峰にむけた局所最適化には「神の見えざる手」は相応しいが、多くの文化芸術や基礎研究は広域探索的であり、その良さの適応度地形は多峰的である
畢竟、イノベーションやムーンショットなんて言葉がもてはやされること自体がある種の市場の失敗
個々のプレイヤーによる近視眼的かつ利己的な行動の積み重ねが自ずと全体最適に繋がる。そこに意識的な介入は要らず、やるようにやらせとけばいいっていうのがリバタリアニズムの公理
どこかで適応度の「谷」を通りぬける必要があり、そこに助成制度で「橋」を渡したり、個々のプレイヤーによる「沢登り」の奇跡的な成功に賭けるんだとしたら、それって全然機能してないじゃんけ
っていう風に思えるかどうかは、その人が触れてきたドメイン次第
リバタリアニズムそれ自体が間違っているのではなく、その人の脳内にもつ「よさ」の潜在空間の姿形がいかなるものかによって、リバタリアン的かリベラリスト的かが分かれるんだろうな
演繹自体は間違っていない。バカなんじゃなくて、ただちょっとプアなだけ
ポケモンにハマり、金融工学を学び、ソシャゲ会社に勤めた人の「文化観」は、極めて単峰的なんかなぁって思う
mimicのようなサービスの裏側にあるのは、殺伐とした新自由主義というよりは、むしろある種の天然さ、ナイーブさ
けど一方で『AIと白人至上主義』の翻訳監修をされているようにコンシャスなところもあるわけで、一面的には語れない
あと彼は人として本当にチャーミング
編集者の存在
出版業か、あるいはどうかはおいといて、広義の編集者、キュレーター的な存在に影響を受けてきた
林ナガコさんのTokyo Video Magazine(VIS)
庄野祐輔さんの映像作家100人
山本加奈さんのwhite-screen
SLN土屋泰洋さん
土居伸彰さん
プレイヤーでいえば、Ash Thorp、山村浩二さん、谷口暁彦さん、久保田晃彦さん
高校1年生の頃に地元の富貴堂MEGAで見つけて、初めてビジュアルプログラミングに触れるキッカケになった鹿野護さんの『Quartz Composer Book』、編集をBNNの村田純一さんが手掛けられていたのをごく最近知り、ささやかに盛り上がっていた。
当時から、映像とコンピュテーショナルな表現への興味をうまく繋げられないかと思って、ActionScript3やDirect Xの本を漁っていた。そんななかで、ぶっといフォントの背表紙の技法書に挟まって、異様に存在感を放っていたのがこの本。思わず買ってしまいましたよね。聞くところによれば、全くもって村田さんの目論見通りだったということなのだけど。
技術的に可能だからブチ込む・賑やかすんでない、鹿野さんのニューメディアに対する落ち着いた眼差しだったり、ニュアンスの言語は、16年経っても血肉になっている。当時はこれを読みながらWindows 98のスクリーンセーバーをMacに移植していたっけか。
この数年、編集者の仕事が自分の人格形成に及ぼした影響を身に沁みて実感する。僕の地元や母校のような、お世辞にも(僕が渇望していた種の)文化性にあふれているとは言えなかった環境で、こういうブッ飛んだ本を通して文化資本の水平伝播に浴することができたのは、色んな編集者の矜持あってのものなんだなぁって。FB含めすべてのSNSがメタクソ化し、その場に足を運ばないと良質な情報に触れづらくなっているなかで、これまで受け取ったものをどう緩やかにダダ漏れさせていけるか ―― それは本でもアーカイブでもソースコードでも良いんだけど、そんなようなことを自分なりに考えていく時期に差し掛かっているのかもなぁと思った