John McTaggart Ellis McTaggart「時閒の非實在性」1908
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系列 (series)
A 系列
過去・現在・未來
端的な A 事實《今》
端的・直接的 (無視點的)・絕對的
やはり現實に存在すると言はざるをえない端的な A 事實
すべての開けの原點であるにも關はらず、客觀的 (時閒貫通的) にはそもそも實在さへしない
A 事實を考へられなければ、「現在であり、過去になり、未來だった、かまたは、過去であり、未來と現在だった、かまたは、未來であり、現在と過去になる」(xor$ \veebar) とは言へず、「現在であり、過去になり、未來だったし、過去であり、未來と現在だったし、未來であり、現在と過去になるだらう」(and$ \land) としか言へない
$ \cancel S\lozenge\cancel A.
瞬閒である必要は無い
端的な今と、端的な今ではない時閒とが在る、と云ふ事が重要。端的な今の幅が短いか長いかは大切でない
A 事實を確實にしようとすれば、惡循環・惡しき無限系列・強辯に陥る 時制 (今)・人稱 (私)・樣相 (現)
私の存在や現實の存在は、人稱槪念や樣相槪念の內部秩序とは無關係に、その外からいきなり與へられるほかはない。
無內包
人稱
媒介的・閒接的 (視點依存的)・相對的
B 系列化可能な形式化された抽象的 A 系列
時制と違って、人稱・樣相では A 事實と B 系列は在るが A 變化は無い
fictional に〈私〉〈現實〉を想定はできる
A 變化から A 事實が次々と突出しては埋没してゆく
B 系列
より前・より後
反省的・再歸的・自己指示的
現に現在である位置とは獨立した、動きのそのやうな一般的理解こそが B 系列を作り出す
因果。歷史
時制的表現や、時閒前後關係それ自體を表象する表現
しかし、會話がなりたつ
B 系列の內にも認識論的な困難が有る
C 系列
出來事の集まり
個數が數へられるもの
時閒對稱な物理學は C 系列のみを扱ふ
矛盾
端的な A 事實 v.s. A 變化 = B 系列
問題
タテ問題
認識論的
時閒の實在性は前提する (ヨコ前提)
出來事の同一性を疑ふ (タテ問題)
一つの出來事が豫期でも經驗でも記憶でもあるのはなぜか
なぜ出來事 M などといふ (豫期も經驗も記憶もできる、したがってそれらとは獨立の) 客觀的な何かが存在するといへるのか
人稱では
同格の複數の人閒が存在してゐることが前提とされる
內側から直接把握された心 (のあり方) と外側から推定された心 (のあり方) の同一性を疑ふ
〇次內包と一次內包の差
ヨコ問題
存在論的
出來事の同一性は前提する (タテ前提)
時閒の實在性を疑ふ (ヨコ問題)
「現在である」といふことそれ自體に存在論的な多義性がある
人稱では
內側から直接把握された心のあり方と外側から推定された心のあり方の同一性は前提されてゐてかまはない
この世界には端的に他と異なる私の心といふものがあるといふ主張と、そんなものはなく、各人にそれぞれ自分の心といふものがあるだけだ (何しろだれもが「この世界には端的に他と異なる私の心といふものがある」と主張するのだから) といふ主張とが對立する
無內包と一次內包の差
Graham Priest「論理學」2001/1/18
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A 系列では$ Pe\land Feと不合理
複合時制を考へても$ PPe\land FFeと不合理
B 系列だけで考へれば矛盾は起きない
$ \begin{matrix}\dots & t_{-2} & t_{-1} & t_0 & t_1 & t_2 & \dots \\ & & & e & & & \\ & & & & Pe & & \\ & & FPe & & & & \\ & FFPe & & & & & \\ & & & & & PFFPe & \end{matrix}.
$ \begin{matrix}\dots & t_{-2} & t_{-1} & t_0 & t_1 & t_2 & \dots \\ & & & e & & & \\ & & Fe & & & & \\ & & & & PFe & & \\ & & & & & PPFe & \\ & FPPFe & & & & & \end{matrix}.
郡司ペギオ-幸夫「時閒の正體 デジャブ・因果論・量子論」2008/9/10
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a/{a}-共軛性
B 系列に於ける「現在」 : a
B 系列中の 1 點
token
A 系列に於ける「現在」 : {a}
集合 {過去から見た未來 (とならう), 現在から見た現在 (である), 未來から見た過去 (だった)} 「現在がいつか」と指す爲には、B 系列中の 1 點 a に依らねば示せない
type
token / type
「觀去來品第二」
Q. 已去無有去 未去亦無去 離已去未去 去時亦無去
動處則有去 此中有去時 非已去未去 是故去時去
A. 云何於去時 而當有去法 若離於去法 去時不可得
若言去時去 是人則有咎 離去有去時 去時獨去故
若去時有法 則有二種去 一謂爲去時 二謂去時去
若有二去法 則有二去者 以離於去者 去法不可得
若離於去者 去法不可得 以無去法故 何得有去者
去者則不去 不去者不法 離去不去者 無第三去者
若言去者去 云何有此義 若離於去法 去者不可得
若去者有去 則有二種去 一謂去者去 二謂去法去
若謂去者去 是人則有咎 離去有去者 說去者有去
已去中無發 未去中無發 去時中無發 何處當有發
未發無去時 亦無有已去 是二應有發 未去何有發
無去無未去 亦復無去時 一切無有發 何故而分別
去者則不住 不去者不住 離去不去者 何有第三住
去者若當住 云何有此義 若當離於去 去者不可得
去未去無住 去時亦無住 所有行止法 皆同於去義
去法卽去者 是事則不然 去法異去者 是事亦不然
若謂於去法 卽爲是去者 作者及作業 是事則爲一
若謂於法去 有異於去者 離去者有去 離去有去者
去去者是二 若一異法成 二門俱不成 云何當有成
因去知去者 不能用是去 先無有去法 故無去者去
因去知去者 不能用異去 於一去者中 不得二去故
決定有去者 不能用三去 不決定去者 亦不用三去
去法定不定 去者不用三 是故去去者 所去處皆無
「去る者が去る」と言ふならば
現に去りつつある (去時)
去る者 (去者。去る主體)
「去る」と云ふ事 (去法)
Q.「去る者が去る」ならば、「去る」と云ふ事 (去法) が有る筈だ
去法は去時に有る
已に去ったもの (已去) は去らない、已に去ったから
未だ去ってゐないもの (未去) は去らない、未だ去ってゐないから
「去る」と云ふ事が無ければ「去る者」は成り立たない
A. 「去る」と云ふ事 (去法) が有るとすれば
「現に去りつつある者」を成り立たせる去る働きと、去る時に於いて有る去る働きと、二つの去る働きが有る事になる
二つの去る働きが有れば、二つの去る者が有る事になる
「去る」と云ふ事 (去法) が有ると假定したから歸謬された
「去る」と云ふ事が無いのだから、「去る者」も無い
A. 去る者が「去る」と云ふ働きによって去るならば
「去る者」に於いて働く「去る」と云ふ事と、去る者が去ると云ふ事自體との、二つの去る事が有る事になる
「去る」と云ふ働きが有る以前に「去る者」が有ると言ふならば、「去る」と云ふ働きが無くても者は去る者であると言ふ事になる
去る者が「去る」と云ふ働きによって去ると假定したから歸謬された
A. 去ると云ふ事がいつか生起するならば
已に去ったところで去る事は始まらない。未だ去らないところで去る事は始まらない。現に去りつつあるところで去る事はもう繼續していて、そこで去る事が始まりはしない
故に去ると云ふ事は生起しない
A. 「去る者」が有るならば
去る者は住しない (留まらない)、去るから
「去る」と云ふ性質を持たない者 (不去者) は、去るか住するか區別がつかない故に住しない (留まらない)
故に何も住しない
A. 去法と去者とは同一ではない
作者 (行ふ主體) と作業 (行ひ) は同一ではない
去法と去者とは異なりもしない
「去る」と云ふ働きが無くても者は去る者であると言ふ事になる
A. 去法によって去者を認識するならば
去法と去者とが同一ならば、去者より前に去法は無いから、去法を去者の說明に用ゐられない
去法と去者とが異なるならば、去者を成り立たせる「去る」と云ふ働きと、去者を說明する「去る」と云ふ働きの、二つの「去る」と云ふ働きが有る事になる
「觀時品第十九」は、別の話題だなぁ
「觀因果品第二十」は「觀時品第十九」に近い
「觀成壞品第二十一」は「觀去來品第二」に近い
山川偉也「ゼノン 4 つの逆理 アキレスはなぜ龜に追ひつけないか」1996/2
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一 / 多
多
點存在論
原子論
有ラヌものどもとしての過去・未來と同列に竝び立つ「現在」
多が在るとすると、矛盾 (歸謬論證)
物
斷片 2
大きさも厚みも嵩も持たない物は存在しない
大きさも厚みも嵩も持たない物を、物に附け加へても物は增えず、引き去っても物は減らない
斷片 1
物は多であるなら 2 分割できる
分割されたそれぞれは大きさを持つ。大きさを持つ物は再び 2 分割できる。分割は無限に繰り返せる
大きさを持つ無限の部分から成る物は、無限に大きい
しかし物は實際には無限に大きくないから矛盾
一方で、無限に分割を繰り返した結果が大きさを持たない物になるとすれば、斷片 2 より大きさを持たない無限の部分から成る物は無限に小さい
しかし物は實際には無限に小さくないから矛盾
斷片 3
物が多く存在するならば、2 つの物が在る時その閒が在る、卽ち 3 つ在る。かうして物が無限に在る事になる
運動
第 1 逆理 (二分割)
始點から終點へ移動する場合、多が在るならば中閒點で分割できる。中閒點を新たな終點として、始點から終點へ移動しなければならない。この分割は無限に繰り返せる。よって無限の運動が在る事になる
しかし實際には運動は有限であるから矛盾
運動についての第 2 逆理 と同じ議論
物についての斷片 1 と同じ議論もできる
無限に分割し終へた時に、幅が在る多くの部分から成るならば、無限の距離を移動しなければならない
無限に分割し終へた時に、幅が無い多くの部分から成るならば、移動するべき距離は無い
中閒點を新たな始點としても、同じ議論ができる
第 2 逆理 (アキレス)
速いアキレスが遲い龜を追い掛けるとする
時點$ t_1のアキレスが時點$ t_nに龜に追ひ附く爲には、時點$ t_1の龜の位置を通過せねばならない。通過する時點を$ t_2とする
時點$ t_2のアキレスが時點$ t_nに龜に追ひ附く爲には、時點$ t_2の龜の位置を通過せねばならない…。この過程は無限に繰り返される
無限に繰り返されるから、無限の運動が在る事になる
しかし實際には運動は有限であるから矛盾
第 3 逆理 (矢)
飛矢を想像する時、飛 (矢の飛翔) と矢 (飛翔する矢) とのどちらかしか想像できない
堅白論と同じく、どう解釋するかによって異なる問題になる
堅いと白いは同時に知覺できない爲、堅い石と白い石とは存在するが、堅くて白い石は存在しない
石は實在するが、堅さや白さと云った性質が附與された石は存在しない
石には、堅いと云ふ性質が附與されて例化される事、白いと云ふ性質が附與されて例化される事ができるが、複數の性質が同時に附與されて例化される事はできない
飛 (動き) は動いてゐる。しかし飛を想像する時、矢を想像できない
矢を想像すると、時點が多く在るならば、指示した矢はその時點に在り他の時點には在らぬ。その時點に在ると云ふ事は止まってゐる
しかし矢は動いてゐるから矛盾
今$ t_1と今$ t_2とが在り、今$ t_1は今$ t_1であり今$ t_2ではあらぬ
第 4 逆理 (競技場)
時閒と空閒が多くの單位閒隔から成るとする
n 個の期閒$ t_1,t_2,\dots,t_nに分割できる時閒に、n 個の區閒$ s_1,s_2,\dots,s_nに分割できる空閒を、n 個の物$ l_1,l_2,\dots,l_nが左から、別の n 個の物$ r_1,r_2,\dots,r_nが右から移動するとする
物$ l_iと物$ r_jとが期閒$ t_kに區閒$ s_mで擦れ違ふ時を考へる
期閒$ t_kの始めに、物$ l_iの右端が區閒$ s_mの左端に、物$ r_jに左端が區閒$ s_mの右端に在る
期閒$ t_kの終はりに、物$ l_iの右端が區閒$ s_mの右端に、物$ r_jの左端が區閒$ s_mの左端に在る
期閒が分割不可能な最小單位を持つとして、分割$ t_1,t_2,\dots,t_nがそれだとすると、
區閒が分割不可能な最小單位を持つとして、分割$ s_1,s_2,\dots,s_nがそれだとすると、
物$ l_iの右端と物$ r_jの左端とが區閒$ s_nの中閒で擦れ違ふ瞬閒は無い事になる。卽ち物は飛躍する事になる
期閒$ t_kの閒、物は止まってゐる事になる
止まってゐる物は運動してゐない
運動についての第 3 逆理と同じではないが似た議論
區間が無限に分割可能だとすると、
物$ l_iの右端と物$ r_jの左端とが區閒$ s_nの中閒で擦れ違ふ瞬閒が在る
期閒に分割不可能な最小單位が在るとしたから、期閒の始めから中閒で擦れ違ふ迄、中閒で擦れ違ってから期閒の終はり迄の 2 單位期閒が經過せねばならない
$ t_kが 1 單位期閒であるとした假定に矛盾する
期閒が無限に分割可能だとすると、
運動についての第 1 逆理と同じ議論ができる
但し、
物理的には、量子論では Planck 長$ \ell_P=\sqrt{\frac{\hbar G}{c^3}}以下の大きさを數へるのは大抵は非物理的な、意味を成さない (摂動の前提として打ち消される) 議論である。著者は量子論は考慮してゐない。因みに量子論も非直感的な性質を持つ 一
《今現在》
分割不可能で始・終なき全一者
世界。存在者全體
Trenton Merricks「耐時的存在者と永在的存在者の兩立不可能性」1995
"On the Incompatibility of Enduring and Perduring Entities"
https://gyazo.com/a48fba8f3a12383af05a86ccd56208c8
現在主義「ほんたうに存在するもののすべてが現在に存在し、物體がほんたうにもつ、まさしくほんたうにもつ性質のすべてが現在においてもたれる」
2. 指標主義 (indexicalism) からは、耐時 (endure)する三次元的物體が存在しないことが歸結する。 論證
3. ある一つの物體は別の一つの物體を、もしその別の物體といふのが存在しないならば、部分として持つことができない。
$ \because部分であるといふことは存在しないものによっては例化されえない
4. 耐時 (endure)的物體$ Oが$ Fであり、かつ過去のある時點において$ Oが$ \neg Fであった、といふことは可能である。 $ \because物體が變化をかうむる
現在主義をとるならば、$ Oが現在に性質$ Fを例化し、性質$ \neg Fを例化しない、と言へる。性質$ \neg Fを例化してゐた$ Oは現在に存在しない
物體 (object) だけでなく出來事 (event) に就いても、卽ちそれらを合はせた存在者 (entity) 全體に就いても同じ
$ \because性質は時點に依存して例化される (時閒指標的) とするならば、物體はそれが存在するそれぞれの時點に全體として存在するといふ耐時 (endure)槪念を退けねばならない 物體 (object) だけでなく出來事 (event) に就いても、卽ちそれらを合はせた存在者 (entity) 全體に就いても同じ
5. 現在主義か指標主義のいずれかが眞である。