『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
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なお、本書では便宜上、「見えない人」とひとくくりに表現していますが、実際には「見えない」といってもその内実はさまざまです。 見た記憶があるのかないのか、全く見えないのか、それとも少し見えるのか、視野が狭いのか、色が分かりづらいのか――。また、同じような「見えなさ」でも、聴覚を手がかりにしがちなのか、触覚を手がかりにしがちなのか、あるいはまた別の方法をとるのか――。「見方」は人によってさまざまです。 個々のケースに寄り添いすぎたり一般化しすぎたりすると大切な論点が失われてしまいます。「個別」と「一般」のバランスをどこで取るのかはなかなか難しいですが、本書では、インタビューで得た具体的な言葉をなるべく引用しながら、それをもとに私が論として一般化させる、という手続きをとっています。
見えないことと目をつぶることは全く違う。
見えている人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断。引き算。
変身するとは、そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。脚が一本ないという「欠如」ではなく、三本が作る「全体」を感じるということです。 異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。
見えない世界は情報量が少ない。
なにをやるか決めてから行動する。
全盲な方は無目的なネットサーフィンはしない?情報過多なLPと明確に差別化していいのでは。
ポイントプログラムよりも決済ができるというシンプルな機能をのみ求めている?
アクセシビリティを高めていくのは、単発的なLPよりもいつも使う明細ページを対象にすべき。
WebサイトやLP単体で考えるのは足りない気がしてくる。けど、そこで最大限できることをするしかないのも事実。
見えない人のファッション
分かりやすく言えば、シャツのボタンをきちっととめている。もちろんみんながみんなそうではないでしょうが、そのことを全盲の白鳥建二さんに聞いてみたところ、笑いながら「全盲の人は、だらしなくなっちゃうか、だらしなくできないかのどちらか」だと答えてくれました。要は、意図的に「着くずす」ということが苦手なのだそうです。
情報処理の仕方
見える人
まず全体を把握して、全体との関係で細部を検討する
見えない人
部分の積み重ねの結果、全体を獲得する
色彩感覚はあるが、混色が理解できない
三次元を二次元化することは、視覚の大きな特徴。
「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。
まっさらな目で対象を見るわけではない。
「過去に見たもの」を使って目の前の対象を見る。
見えない人、とくに先天的に見えない人は、目の前にある物を視覚でとらえないだけでなく、私たちの文化を構成する視覚イメージをもとらえることがありません。見える人が物を見るときにおのずとそれを通してとらえてしまう、文化的なフィルターから自由なのです。
Out of sight, out of mind.
《見えなくなるものは忘れられる》
見えている人にとって、空間や面には価値のヒエラルキーがあります。まさに「正面」という言い方に価値の序列がダイレクトにあらわれています。人体であれば顔のある腹面、建築であればファサード、壷であれば絵が描きこんである方……「これこそ正しい面だ」といういわば「見るのにふさわしい面」が、「正面」と呼ばれます。その反対は機械的に「裏面」とされます。正当ではない、ときに反社会的ですらあるいかがわしさを醸し出す面です。「裏の顔」「裏口入学」「裏社会」といった言い回しにそのニュアンスは明らかでしょう。 先天的に見えない人の場合、こうした表/裏にヒエラルキーをつける感覚がありません。 表裏、内と外の価値は同じ。表裏一体。
点字の識字率は、視覚障害者の約10%
※視覚障害者は、人口の0.24%ほど(30万人ほど)
感覚のヒエラルキー
五感のうち優れた感覚のように順位がある、
視覚
聴覚
嗅覚
味覚
触覚
と続く。
ただ、本質的にはこのヒエラルキーは誤りではないか。明確に隔てられるものではなくグラデーションだから。
触覚面を通して物とひとつになる。
コンピュータ使っている人だと、キーボードとひとつになる。
触って自分の体の範囲が拡張される。
視覚障害者のスポーツ