アンリ・マルディネ
シュトラウスは、ここで示された光学的空間と音響的空間の対比を、5年後の『感覚の意味につ いて』において、よく知られた「地理空間」と「風景空間」の対比として練り上げることになる。 しかし、ここで批判的に問うべきなのは、色/音、視覚/聴覚、光学的/音響的という、既存の諸 感官および感覚的素材の差異に対応づけられた対立が、果たして維持されうるものなのかというこ とである。
マルディネがシュトラウスを継承しつつ、批判的に介入するのはここである。マルディネは『眼 差・言葉・空間』(1973年)の第7章「美的=感性的な次元の解明」において、シュトラウスにお ける色/音、視覚/聴覚、等々の区別に疑問を呈し、風景空間(音響的空間)が、音楽やダンスだ けでなく、絵画においても根本的な役割を演じうると主張する(RPE 195-196)。
マルディネは、抽象画の先駆者ロベール・ドローネーの言葉を用いて、 絵画における「色は、奥行を与える―パースペクティヴ的でも、継起的でもない、同時的な奥行 を」(RPE 196)と主張する。これは、絵画における色は、まさに音響的空間とその現在時称性の 特徴であるところの非パースペクティヴ的な現前=現在を持つということである。 マルディネによれば、抽象画だけでなくあらゆる絵画が、事物的対象性に依存しない非パース ペクティヴ的な現前=現在の契機を持っている。それをもたらすのが、事物的対象性に依存する 「像」からは区別される「形」であり、「リズム」だとされるのである。
リズムがそれ自体において何であるかは、私たちには概して漠然としている。エルヴィン・シュ トラウスがまさに記しているように、リズムは主題的に概念化されることがない。リズムとは、 空間それ自体の 、満ちた空間の 、唯一の可能な運動である。〔......〕リズムのなかでは、時間 は純粋に消えることも、蓄えられることもない。(RPE 194)
難解な記述だが、おそらくポイントはこうだろう。つまり、変化も歴史も否定する同質化した空 間、その現在時称性(=蓄えられることの否定)は、しかし、未分化な深淵ではなく(=純粋に消 えることの否定)、固有のダイナミズムを持つということ(=可能な運動の肯定)、そしてそのこと を可能にするのがリズムだということである。
シュトラウス自身、身体運動が方向定位を喪失する とき、それが「眩暈や、失神や、恍惚」へと至る可能性を念頭に置いた上で、音楽とダンスのリズムが、眩暈の不快さを耐えうるものにして、恍惚をもたらしうるということを示唆している5)。
マルディネは「リズムの美学」を、芸術家とは何者かという議論からはじめる。そこで引用され ている R・M・リルケの『デュイノの悲歌』によれば、あらゆる生きもののなかで、唯一、人間の 眼と耳は「向き合い」をその運命としている。しかし、マルディネによれば、そのような人間のな かで、芸術家は「世界をパースペクティヴ のなかに置くことからはじめない者」(RPE 203)であ り、そうすることによって向き合いという運命を人間でありながら逃れる者だという。
さまよい、深淵、カオスは、向き合いの崩壊であり、世界への開かれであるが、その開かれはそ れだけでは、私たちを飲み込んでしまうような否定的な「裂け目」(béance)でしかない。マルデ ィネは、この開かれが、そのような裂け目であることから、芸術作品の創造の契機である「開放」 (patence)へと変成する過程を論じる。それは、さまよい、深淵、カオスに対する、二つの応答と して記述される。その第一の応答が、シュトラウスも言及していた「眩暈」(veritige)である。
向き合いにおいては、私たちは、行動する身体の実践的可能性によって決定される「「近さ -遠さ 」 の緊張」(PPA 14)のなかで空間を経験するが、眩暈においてはそれがほどけ、近さ-遠さが混交する。 ここでは、私たちは向き合いからは脱するが、その裂け目に飲み込まれ、「それ自体が「深淵化し た」空間の餌食になる」(PPA 14)という別の運命をたどることになる。
向き合いか、さもなくば飲み込まれかという運命が変わるのは、さまよい、深淵、カオスへの第二の応答が介入するときで ある。それが「リズム」である。
マルディネにおいて、リズムはこのように、さまよい、深淵、カオスがそれによって秩序へと跳躍する決定的な役割を担っている。注意しなければならないのは、リズムが、開かれを閉ざすことで私たちを向き合いへと復帰させるのではなく、「〈開かれ〉をあるがままにする〔存在させる〕」 (RPE 208)という点である。それは、向き合いを排除しつつ、「風景〔音響的空間〕から出ることなく私たちがさまよいから目覚める別の仕方」(RPE 197)を与える。このようなリズムによって 可能となる、向き合いでも、飲み込まれでもない、非パースペクティヴ的な現前=現在が、絵画の特権的な契機を構成する。「芸術はそのような目覚めからはじまる」(RPE 197)。
刻む身体と数える身体の往復
切断されカオス化したサンプルを「新たなテクスト」に戻す(=向き合いへと復帰させる)のではなく、切断されたまま持続させる(=開かれをあるがままにする)ことこそがサンプリングミュージックの美学であり、それはリズムの美学でもある
形とリズム
それでは、リズムがそのような仕方で現前させる当のものとは何だろうか。それは色であり、線 である6)。しかしながら、さまよい、深淵、カオスにおいては、色は「玉虫色」(セザンヌ)、線は 「混乱した束」(クレー)である。それらは、いまだ対象化されざる「諸々の出来事」であり、あら かじめ展開されているそれらに外的な座標や、パースペクティヴのなかに位置づけられるのではな く、それらがみずから生み出す内的な緊張や対照によって、形を生み出し、空間と時間を「織り上 げて」いく。まさに色は「パースペクティヴ的でも、継起的でもない、同時的な奥行」を与えるの である。
マルディネはリズムの形式的定義として、『ロベール』における「規則的な間隔への持続の配分」を批判し、「持続の間隔ではなく「緊張」」(PPA 17)を打ち出しているが、マルディネに おけるリズム概念の最大公約数は、諸々の出来事としての等価不可能で異質な色や線、つまり、展 開された空間と時間のなかにあるのではなく、自分たちで自分たちを分節しながら空間と時間を織 り上げていく色や線の、内的な緊張や対照に求めることができるだろう7)。
このように、形は、すでに展開された空間と時間のなかで、事物的対象に帰されるものではな く、つまり「志向的 - 表象的」なものではなく、「発生的 - リズム的」(RPE 211)なものである。マ ルディネはこの点で「形」を「像」から区別する。像は、事物的対象をモデルとし、そのコピーと して与えられ、モデルについての志向性を要求する。これに対して、形は̶まさにシュトラウス において音がそうであるように̶事物的対象から出発することのない、むしろ無からのみ出発し て自分で自分を形づくる、ということは、地に対して浮かび上がる図でさえもない、ひとつの「行為」である。「形の行為とは、形が自分で自分を形づくる行為であり、形の自己発生である」(RPE 211)。像が他の何かを指し示すのに対して、形は自分自身をあらわにするのである12)。
滞在=住処
この用語はシュトラウスの「故郷」「歴史」を意識してそう
芸術における形は、ハイデガーが「それ自身においてみずか らを示すもの、あらわなもの」と定義する「現象」(RPE 179)にほかならないという。しかしそ れは、向き合いにおいて知覚されるものではなく、シュトラウスの言う「受苦的契機」においてた だ「感覚すること」しかできないもの、つまり「立ち会う」ほかないものである。マルディネによ れば、形、そしてそれを生み出すリズムは、「情感的調性〔気分〕」(RPE 211)を決定し、私たち はその調性にしたがって、いかなる志向 - 表象にも先立って「世界に住みつく」(RPE 211)という。
マルディネにとって、芸術の非パースペクティヴ的な現前=現在、それをもたらす 形とリズムは、人間と世界の受苦的な立ち合いをもたらすものであり、それが住まうことの契機を 構成する。
シュトラウスとの差異
マルディネのリズム論は、シュトラウスのダンス論の批判的継承であり、 同じ概念を用いてさえいるが、後者が、滞在地と故郷からの離脱を指向するのに対して、前者は、 最終的に滞在=住処を設えてみせることで、「起源」への回帰を強く指向するように見える。これ をどう評価すべきだろうか。このような故郷、滞在、住処、そしてそれらからの離脱をめぐる問題 は、マルディネのリズム論を援用したドゥルーズとガタリのリトルネロ論にも確認できる。最後に これを一瞥し、それを踏まえた上で、結論へと向かうことにしたい。
ドゥルーズ・ガタリへ
ドゥルーズとガタリは、『千のプラトー』(1980年)の第11プラトーで、カオスから秩序への跳 躍をめぐるマルディネの記述を参照しながら、暗闇のなかで歌を口ずさむ子どもの話に触れている。 暗闇は、シュトラウスが「薄明」と並べて言及する音響的空間、風景空間の等価物である。子ども にとって暗闇は、マルディネが言うように、そこに飲み込まれてしまうような深淵かもしれない。 それに対して、歌は、前後左右不覚のカオスで一時的に中心を占めようとする営みであり、それを 足掛かりとしてカオスのなかに限られた領土を組織することが可能となる。ドゥルーズとガタリは それを「我が家」(MP 382)と呼ぶ。我が家は、一方で、カオスから私たちを保護してくれるもの であるが、他方で、私たちがそれを拠点としてカオスへとみずからを開いていくことを可能にする ものでもある。ドゥルーズとガタリは、このような領土を構成すると同時に、それを外へと開きもする行為をリトルネロと呼び、それを芸術の根源的な行為だと考える。
リトルネロは、私たちがマルディネに見てきた、さまよい、深淵、カオスに直面しての、「眩暈」→「リズム」→「開放」という三つの契機を体現するものだと言えるだろう。
他方で、ドゥルーズとガタリは、リトルネロにおける「領土性と脱領土化の両義性」が「〈生まれ 故郷〉の両義性」を意味し、結局のところ「〈生まれ故郷〉は外にある」(MP 410)とも言う。こ こでこれ以上の詳細には踏み込めないが、はっきりとしているのは、リトルネロは領土の行為であ るが、それはまったく同時に脱領土化を含み、それと不可分であるということ、領土はそれが外に 開かれることを本質としており、そうでなければ領土ではありえないということである。
結論
マルディネのリズム概念は、明確な定義を拒む曖昧なものであるが、その理論的源泉であるシュ トラウスのダンス論と、それを理論的源泉とするドゥルーズとガタリのリトルネロ論に照らすと、 それらの共通する点を取り出すことができる。それは、リズムが、「眩暈から開放へ」という言葉 で表すことができる、さまよい、深淵、カオスを、芸術の特権的契機へと、そして私たちと世界の 受苦的な立ち合いの契機へと変成させるものだという点である。
マルディネの特徴的な点は、事物的対象性からの解放を論じながらも、起源へと回帰する強い指向である。もちろん、ドゥルーズとガタリが言うような両義性を、その起源に読み込むことは不可能ではないかもしれない。しかし、マルディネの起源への指向は、ある重大な可能性を示唆しているように思われる。それは、音と色が、やはり根本的に異なる空間性を持つという可能性である。 マルディネは、シュトラウスによる色/音、視覚/聴覚、等々の区別を果敢に脱構築して、音響的空間の視覚的曝露を明らかにしようとするが、その結果、音のラディカルな離脱性を奪ってしまっ ているのではないだろうか。
参照文献
関連項目