『訂正可能性の哲学』
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2023/9/1
第1部 家族と訂正可能性
観光客と家族
コロナ禍以前は家族は肯定的に捉えられていなかった
プラトン: 守護者は家族を持たない (子供は産んでも良いが共有) マルクス: 家族は反動的
流れ的に家族に忌避感があった事実はわかったが、各人がそれをどういう根拠で主張してるのかは読んでも分からなかったmrsekut.icon
すなわちポパーは、家族を捨てた人々が建設する国家の構想を、それ自体が部族的=家族的だと批判していることになる。これはいったいどういうことなのだろうか。
開放性と閉鎖性ははっきり特別できるものではない
ぼくはその混乱に、ある関係を「開かれたもの」だとみなし、別の関係を「閉ざされたもの」だとみなす、その区別そのもののむずかしさが表れているように感じるからである。
ここがあずまん
個人よりも前に国家が存在する
家族→市民社会→国家
家族の分類
夫婦と子供、二世代
実は最も古く普遍的だった?
共産主義と相性が良かった?
家族形態が政治思想に影響を及ぼす可能性
家族の外にも家族しかない
第2章 訂正可能性の共同体
つまりは彼は、家族の比喩 を、共同体が閉じているさまではなく、むしろ閉じることができないさまを意味するものとして 使っているのである。
プレイヤーは、自分が何のゲームをプレイしているか理解していない
理解するのは原理的に不可能
複数のゲームが重なり合っている
加算のような数学の原理ですら、他者がいないと遂行できない
クワス算
陰謀論を想起したmrsekut.icon
ルールも共同体も動的に変わる
規則が共同体を生み出すわけでもなければ、共同体が規則を生み出すわけでもない。むしろ、プレイヤーたちが繰り出すプレイについて下される毎回の成否判断、そしてそれに付随する「訂正」の作業こそが、規則と共同体をともに生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうか。
訂正するなら共同体に入れる
同じ遊びをしているのに、勝手に訂正され続ける
メンバーも変わる、やる内容も変わる
訂正されるが、同じものが残り続ける
Identityの話?mrsekut.icon
固有名の逆説
固有名は、その定義を遡行的に訂正することができる
言われてみれば、数学が成り立つのもそのコミュニティ内にいるからかmrsekut.icon
第3章 家族と観光客
主張自体はわかるが著者がそれのどこに可能性を感じているのかがわからないmrsekut.icon
家族を掘り下げるモチベが見えていない
続きを読めば書いてた
友でも敵でもない第3の立場
観光客は村を通り過ぎていくだけだ から、友とはいえない。ともに村の未来をつくるわけではないし、ゴミなどで迷惑を蒙ることもあ る。けれども敵でもない。経済的には恩恵を与えてくれるし、新しい住民も連れてきてくれるかも しれない。いままでの政治思想は、そのような 「中途半端」な参加の意味についてあまりに考えて こなかったのではないか。それがぼくの問題提起だ。
政治への中途半端な関わり方、中途半端なコミットメントをする
東浩紀は家族(あるいは、人生、コミュニケーション)のモデリングをしてるのかも知れないmrsekut.icon
この辺、こじつけに見える
解説がうすすぎるからか
ただ、クリプキの可能世界意味論と関連させるのは、興味を引くmrsekut.icon 第4章 持続する公共性へ
家族のモデルで、保守とリベラルを説明している
保守は共同体が閉じていることを前提としている
リベラルは共同体は開かれるべきだと信じている
思想を自分の中に閉じ込める
人と思想を共有できない
リベラル・アイロニズムという思想自体を共有できないという皮肉
チームで活動とかできない?
リベラリズムに保守的思想を持ち込んだ
他者の一部に対する仲間意識
同じ人間、同じ国民、同じ親
偶然性
たまたまアメリカに産まれたから、アメリカで主流な思想になっているだけ
連帯の範囲
の変化
の偶然性
--
民族や慣習
-
公的に生きる
公的に生きることの重要性を説く
公に現れるもののすべては人に見られ聞かれる
開放性
活動
人間による制作物、社会環境、世界
持続性
創作
活動(言語的なコミュニケーション)を通して公共に接続して人格として現れる
whoが重要
現れと表象
活動者よりも、それを記録する人の方(制作者)が強い
最後の方は東浩紀節
第2部 一般意志再考
第5章 人工知能民主主義の誕生
現代世界がパニックに弱い
起業家、エンジニアなど、理工系の物語
特に2010年代の技術への期待
AI+VC層
AI+BI層
しかし、実際は感染症も飢餓も戦争も克服できていないことが明らかになっている
2000年代
SNS、スマホ
ネットは民主主義を危機に陥らせる
第6章 一般意志という謎
シュミット「独裁こそが民主主義を実現する」
民主主義の定義が曖昧
ルソーの紹介
ルソーはメンヘラ
ホッブズとロックは、
人は一人では生きられない、だから社会を作った、という順序
自然状態だと殺し合いが始まるので、統治・権力を必要とする
ルソーは、
人は孤独・自然状態のほうがよく生きることができる
それなにのもかかわらず社会を作ってしまった、という順序
孤独に生きていた(社会契約は不要なはず)はずなのに、
誰かが私的所有を発見したことで不平等が生まれ、
物理現象の発見のようなもの
今の世界に当てはまる枠組みの発見
それを「遡行的な発見」と呼んでる
ルソーの時代には無意識という概念が発見されていなかった 画期となったのは、 一七七四年、フランツ・メスメルという医師が「動物磁気」なるものを「発 見」したことである。動物磁気は、人間や動物の内部と外部を貫いて流れる流動体のことであり、 その流れを操作することで精神疾患を治癒できると考えられた。 メスメルのこの仮説は高名なエク ソシスト(祓魔師)との論争に勝利することでヨーロッパ中に広まり、現代精神医学への道を開い た。ref /mrsekut-book-4907188501/213 調査の歴史が書かれているの面白い
一般意志を「統計」として説明できる
訂正可能性があると、法則に対抗できる?
第7章 ビッグデータと「私」の問題
人工知能民主主義はビッグデータから一般意志を取り出すことを考える
ビックデータ分析から導かれるスコアは個人の力では訂正できない
「自分に似た人々」に飲み込まれる
個人の固有性を認めない、群れの分析だけを行う
主体を作る
関連
訂正可能性を実装する
鈴木健
したがってぼくは、人間の社会について考えるにあたり、その「私」という固有性の感覚に直面しない思想は、すべて原理的な欠陥を抱えていると考える
禿同だなあmrsekut.icon
永井均みを感じた
第8章 自然と訂正可能性
一般意志
社会の外部に絶対的な力として存在する
一方で、社会の内部から訂正可能である
この特性により、全体主義への傾きを防ぐ
人為のものを遠ざける
ルソーは創作を嫌っていたが、小説を書いた
この辺の解説、ほんまか?感が大きい
演劇と小説の対立
社交の拡大の問題
いいねとRTばかりを気にする
ほんまにルソーにそんな深い考えあったのかな?mrsekut.icon
あずまんが良いように解釈し過ぎでは
解釈の面白さゲームじゃん
ジュリは自然の暗喩
さんぷるー
自然的
ヴォルマール
人工的
一般意志は超越的で絶対的な存在である。自然と愛も超越的で絶対的な存在である。けれどもそれらは同時に訂正可能性に開かれていなければならない。
真実と嘘の境界をなくすことで、はじめて自然は「訂正」される。
真実と嘘の境界で現れる人工的な自然を作る
人工的な自然がないと訂正できない?
第9章 対話、結社、民主主義
対話
対話は開かれている
対話は本質的に終わりようがない
ドストエフスキー
一般意志は小さな社会で補われるべき
一般意志は「私」を必要とする。 政治は文学を必要とする。 これは統治者には文系の教養も必要 だとかなんとかいった、感情論の話ではない。人間のコミュニケーションの条件そのものから導か れる、厳密に論理的な話である。ぼくたち人間は、絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経 験的で特殊的な事例による「訂正」なしには維持できない、そのようなかたちの知性しかもってい ない。政治の構想もまたその限界には制約される。
民主主義の本質は喧騒にある
おわりに
文献一覧
索引