経団連
経団連の会員企業で経営会議にプロパー以外の社員が何人いるかというと、ゼロか一人のところが多い」。この状況に対して南場さんは、出入りを自由にしてどんどん中途採用者を受け入れ、途中から入った人材も幹部になれることを企業として示していくべきだと考えています。
そもそもトランスフォーメーションは自身の形を変えるくらいのジャンプを指すのに、そこの環境しか知らない40年選手だけで意思決定していたら、形なんか変えられるわけないじゃないですか
https://www.youtube.com/watch?v=xHZeNHHsUfg
経団連の一貫した主張
「税を含めて一体的な改革をしなければ、日本の社会保障制度はもたない」と強調。
「若い世代が将来不安なく、安心して子どもを持つには全世代型の社会保障改革しかない。それには消費税などの増税から逃げてはいけない」と述べ、実施時期に十分留意しつつ、増税は必要だとの考えを示した。
経団連の歴史は日本の戦後経済史
経済3団体
経団連
大企業(当初の条件は純資産10億円以上)が企業単位で加盟
中小企業
大企業経営者の個人が集まったもの
会長は財界総理という異名がある
種本
1959(昭和34)年福岡県北九州市生まれ。日本経済新聞編集委員。早稲田大学政治経済学部を卒業後、日経新聞に入社。主に企業取材の第一線で活躍している
1948年 戦後GHQ主導で経団連結成
GHQは財閥は政界にアプローチしていたので財界も責任にあるとみて公職追放をおこなった GHQは元々欧米にあった「企業団体の声を政府に届ける団体」を作ろうとした
財閥(主に銀行などの金融関係)がリーダーシップを張れない企業団体としなければいけなかった
そこで製造業である日産化学工業の石川一郎がトップとなった
1955年に自由党と民主党が合体して自由民主党結党 自由党・民主党は反共産主義なので、その敵の自民党は資本家サイド 経団連は自由主義経済の保険料として自民党に献金をした
1956 東京芝浦電気(東芝)石坂泰三
当時は東芝争議を取りまとめるために第一生命から東芝に出向していた 1968 植村甲午郎(経団連事務局)
副会長を5人から8人にした
当初以外は副会長が会長に指名される形式
今20人いる
副会長がたくさんいるということを聞かせられるので便利
本当?基素.icon
1974 土光敏夫(東芝)
怒号を飛ばしていた
政治献金を廃止しようとしたが反対された
「俺たちがやらなくてもよそが献金して、俺たちの地位が下がるだけじゃん」
うやむやになった
東京電力は公益企業なのになぜ特定政党に献金するのかと批判
当時の自民党の献金要求は強かった
1980 稲山嘉寛(新日本製鐵)
戦時中に富士製鐵や八幡製鉄が日本製鐵になった
GHQが解体させた
日本製鐵は分解されたのが嫌だったのでまた合併して新日本製鐵となった
鉄は国家なり
副会長を8人から12人にする
自分の後輩を捩じ込んで指名した。新日鐵世襲と言われて批判された
1986 斎藤英四郎(新日本製鐵)
バブル崩壊前の絶頂
125億円献金している
国を引っ張っている企業が持ち回りでやろう、から自分に都合のいい人を選ぼうになっていった
当時新興企業のソニーとトヨタが売れていくことによってさらに加速 https://www.youtube.com/watch?v=x9zMLAHqc2Y
リクルート事件に続き、金丸事件が起きて経団連への批判が高まる 1994年 企業献金に関わらず政治ができるように政党助成法が成立 政治家は金が必要なので、政治家は企業に頼らなければいけない
すると企業のいうことを聞かなければいけない
国民からお金をもらうべき
という法律
国民一人当たり250円(300億円)を議席数に応じて配分する
余ったら国庫に返す
批判を受けて平岩は献金を辞めると言った
経団連からの献金もしない
東京電力から献金しない
細川内閣を打倒するために自民党は社会党と新党さきがけと連立して(思想的にあり得ない。なりふり構っていない)勝利。与党に戻ったらさきがけと社会党を連立解消し、単独橋本龍太郎内閣を組閣 副会長に1990年になってスピード会長
平岡の次はソニーの森田会長の予定だった
章一郎は中央財界にパイプがなく、スタッフを50人引き連れて業務をやった
自民党は献金をおくらなかった東京電力に報復として電力自由化を始めた 東電の副社長を参議院に出して100万票集めさせた
経団連と日経連は所属会社がほぼ同じで、一緒にすると会費を安くできた
労使関係は社会主義が崩壊して激しい労働組合がなくなっていた
1998
2002