タイムラインのキャンプファイヤー
from 2025-11-10
たまにTwitterを開くと、PvP型SNSらしく、過激なアンチお絵描きAIが「AI利用を隠している」といえばAI利用者は「法律には反していない」などと返すようなAI論争が繰り広げられている。
セレクティブ・エネミーを見つけた上で個人と属する集団を同一視する誤謬を使い、お互いのどうしようもない部分をあげつらい「あいつらは馬鹿だ」とフォロワーに誇示をし、自らの正当性を確認し合っている。
目を凝らしてみても、調和を作ろうとする努力の痕跡は見つからない。
「議論」はもはや議論とよべる代物ではない。敵と味方を区別し、仲間の団結を高めるための正義の物語づくりの儀式なのだ。
交わらない──あるいは交わりすぎる──「議論」で何かが生まれることは決してない。
規制をしたいなら、身内以外の大衆に共感されなければならない。攻撃をしても大衆はついてこないだろう。トランプのアメリカを腹の中で支持する外野はいない。
活用を望むなら、自ら研究し、仲間と知識を共有し、他より優れた作品やプロダクトを出すしかないのだ。
この流れの中に議論が挟まる余地はないだろう。
皆がXという名の焚き火場で、議論の炎に薪をくべている。イーロン・マスクが次々とタイムラインに送り込む火種を育てるため、せっせと息を吹きかけて酸欠になっているさまは実に滑稽だ。
理屈の森でドタバタと殴りあっているうちに、誰かがそっと現れて、決定的な道を開いてしまうだろう。その人は焚き火を取り囲み騒ぐ者を横目に、ただ毎日、地道に汗をかいていた人であろう。
あとに残るのは、もはや何のために燃えていたのか誰も思い出せぬ祭りのあと、しかしたしかに燃えていたことを示す灰だけだ。
思えば、自分も2年前まであの焚き火を囲んでいた。その事実を思うと背筋がうっすら寒くなる。