わからないものはこわい
わからなくてリスクがあれば、怖がってやらない
リスクの見積もりが不可能
わからないものに手を出すのは基本的に得策ではない
初めはめんどくさがる
だんだん恐怖になる
わからないのに、やらなければならないから?
https://youtu.be/pYkqrwr7lYE
@gweoipfsd: 寝起きで、いままで解決できなかった。「恐怖」と「好奇心」をどう情報処理として区別して実装すればいいか整理ができたのでメモする。 そもそも発端は何年も前、会社で機械学習による人工生命を開発していたときに、現場で生物に「死への恐怖」を学習させられないという課題があった。
要するに生物にとって「死」は1回しか起こらないので、しかも学習すると死んでしまうので、死は怖いものだとして経験として学習させる方法がない、という問題だった。 実際、虫とかは恐怖とかなさそうなので、恐怖というのはかなり高次の情報処理だよね、ということで、その時はよく分からなかった。
その後、2,3年前に、ふと、死とは究極の「知らないもの」であることに気づいた。つまり死とは1回しか経験しないものであるから、逆にまだ経験しないものを恐れるようにしていれば、その極限に「死」が存在する。
圏論的には死は「知らないもの」の余極限として存在する。
実際、ホラー映画でも知らないもの理解できないもので恐怖を感じさせているから、人間が知らないものに恐怖する性質をもっていることは明らかそうに思える。
でも、一方、人間は知らないものに好奇心を感じる。知らないものへ恐怖と好奇心を感じるという、行動としては真逆の感情をどのように区別して整理しているかが、未解決の疑問として残っていた。
さっきベッドでまどろみながら考えていて気づいたのだが、結論を書くと、人間は「知らなくて、まったく分かりそうにないもの」に恐怖を感じる。逆に「知らなくて、分かりそうなもの」に好奇心を感じる。ということだ。
「知らないけど、もし、それを知ると、いままで知らなかったことが分かるようになるとき」に好奇心、「知らなくて、もし、それを知っても、なにもその先にない。より分からなくなるだけ」というときには恐怖、をそれぞれ感じる。
圏論でいうと、恐怖を感じるのは余極限、好奇心を感じるのは極限だ。圏を定義するなら、対象は「概念」で射は「連想」といったところか。なにも連想できない新しい対象に恐怖、いろいろ連想できる新しい対象に好奇心を感じる。 そう考えると、恐怖の克服する具体的な手法も思いつく、連想できるようにすればいい。これは映画だ、これはゲームだ。こうすれば天国にいける。などなど。
以上。どっかでブログにもまとめたい。ということでメモ。
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