みんな違ってみんなどうでも良い
人の評価が気になるのは、近代教育の影響だ
――小さいときに、褒められた?
小さいときには褒められて嬉しかったこともあるし、けなされて悲しかったこともあったかもしれないけど、今はもうない。それは、自分が「近代教育」から抜けたから。小学校から高校までが、近代教育。日本ではこの間に、他人にけなされたら悲しくて、他人に褒められたら嬉しいということを刷り込まれる。
近代教育において「誰かに褒められる」というのは、つまり何らかの評価機構に「良いです」と言われることだ。テストで良い点数をとったり、かけっこで1等賞になったり。そのことに価値があると小学校1年生から高校3年生まで教え込まれる。
逆に、そういうのは別にどうでもいいから、というのが大学教育。評価基準を自分で作って、自分で「美しい」と認めるのが大学の、アカデミズムの世界だ。つまりそれは美学の領域で、研究というのは美学であり、コミュニティー作りかつ探究だ。 僕は今、(筑波大で)大学教育をしている側の人間だ。大学では、(褒められるためではなく)自分がやりたいと思ったことをまじめにやればいい。そう思うと、あまり何も気にならなくなってくる。そういう人たちをどれだけ育てることができるかが、勝負だと思っている。
僕は今、「出る杭」として打たれている気はしていない。打ってくる球は打ち返すけど、打たれることが嫌だと思うのは教育の影響だと思う。本来、出る杭は打つ必要ないから。
出る杭を打ち合っている時間はないのに、みんな、他人に興味がありすぎる。
僕、他人に興味がないからね。他人に興味がない人が増えたらいいなと思うけど、それは思いやりがない人という意味ではなくて。道端で人が倒れていたら、大丈夫か?となるし、お隣さんに迷惑をかけないようにしようとも思う。それは美意識の問題だ。でも、「お隣さんが車を持っているからうらやましい」というのは美意識ではない。