Post-truth
「世論の形成において、客観的な事実よりも、感情や個人的な概念に訴えるほうが影響力がある」状況を表す
これって当たり前じゃないかな?基素.icon
統計データへの懸念を提示することはいくらでもできる
客観的な事実を出せることは限定的
反論ができない統計データを出すのは容易ではない
統計データに嫌疑がある場合それは本当ではないというバランス感覚を持つ人が結構いる
決めつけは良くない的な思想があるのだと思う
もちろん決めつけは良くないが、たたき台になるデータがあるのとないのだと前者の方が相当マシなはずだが...(もちろん終わってるデータが出されたらその限りではない) truthが重視された時代の方が少ないんじゃないかな?(統計は知らない)
エビデンスをもとに自分を曲げられる人は少ない
2016年12月16日、オックスフォード英語辞典が「2016年の世界の言葉」として「post-truth」を選出
同辞典によれば、「post-truth」という言葉が最初に使われたのは1992年でしたが、これまであまり話題になりませんでした。しかし、昨年(引用者注:2016年)の使用頻度は前年比で2000%アップしたそうです。これには候補語の「Brexiteer」に関連する「Brexit(ブレグジット)」、つまり16年6月のイギリスの欧州連合(EU)離脱と、11月のアメリカ大統領選挙が大きく影響しました。
前者では、EU離脱派の「トルコが近々EUに加盟するので大量の難民がイギリスに押し寄せてくる」など、後者では、トランプ支持者による「テロ組織がクリントンに資金提供」などのフェイクニュースがSNSなどで拡散され、状況を伝えるニュースなどでこの言葉がよく使われたのです。 大統領選に関連するフェイク・ニュースを拡散させたのは、トランプ支持者だけではありません。特に政治に関心のないマケドニアの少年たちによる「ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王がトランプ氏を支持」というものもあり、これを信じた人が少なからずいたのです。これは、ニューヨークに本社を置くオンライン・メディア「BuzzFeed(バズフィード)」の取材で判明したことで、少年たちはトラフィック数を増やしてお金を稼ぐことが目的で、楽器欲しさにやったと答えた少年もいました。
嘘を嘘と見抜くのは困難がある。周りの情報が全て「嘘か本当かわからない」ものになった世界を想像してみよう。わかる努力には途方もない労力が必要そうに見え、学ぶ気が失せる。 そこで自分は何を信じたらいいだろうか?あるいは何を信じるだろうか?
区別がつかないのだから、自分が最も気持ちがいいストーリーを選択するのではないか?
そして、嘘か本当か分からない状態というのは、現実をかなり表していると思う。この世にはわからないことが多すぎる。わからないから専門家が飯を食えるように分業が進んだ。
「流石にこれはないだろう。詳しいことはわからないけど」という判断ができるのはリテラシーがあるからだ。それは長年の不断の努力によって得られる。 主観が最高ならなんでもいいと考えている自分としてこれを肯定したいと思うが、厄介なこともある。例えば他人に害がある行動をとってしまったらどうだろうか(悪質なデマの拡散とかね)
システム的に防げれば良いけれどまだ技術はそこに至っていない
大窪 健児
東京大学 大学院総合文化研究科 広域科学専攻 修士課程 科学技術インタープリター養成プログラム12期生
指導教員 松田 恭幸