代謝としての創作
後書:以下の文は心にいつも冒険心。の目次と最初の5ページぐらいのキャラデザを見て脳内に電撃が走り書いた 創作は代謝に似ている
ご飯を食べたらうんこが出る、情報を摂取したらまとめが出る。何らかの刺激を受けて、自分も何かやってみようとする。書いていて、「そりゃそうだ。みんなそうだろう」と思う。ただ、自分は、興味の発散が人より強いような感じがする(自分取扱説明書 2025-09-24参照)。"101"が終わったら別のことをやり始め、また未来に戻ってくる。地に足はつかず、技量は身につかず、自己満足以外の何も得られない。しかしそれで困った困ったと笑っているような余裕はある。この余裕は確保していきたい。 「発表して、売る」は最近、よく考えている。どうも1年前にも考えているようだ(趣味で稼ぐ)。今後の軸になる考え方だから育てていきたい。 それはそれとして、創作物は勝手に生まれてしまうのだから、それを適切に発表する。特にバズを狙うコストを払わず、好きなものを勝手に作る。そして発表はしておく、という事もやっていきたいと思っている。
例えば、YouTuberとして生活を狙わずに、単にYouTubeに動画を上げておくというような事を意味する
YouTuberとして生活をしたり副業にしたいならば、結構な労力の投下が必要になるし、視聴者の好きなことで生きていくものだから、ウケる企画をやる必要がある。
こういうYouTubeの使い方をしている人は現実にたくさんいるはずだが、そのようなチャンネルが検索して引っかかる事は稀なので、存在を意識する機会は少ない。
私もYouTubeをやるならあれとこれを準備して…と考えてしまう。この考えを捨てる。
一方、創作は勝手に生まれてしまうライフワークなのだから、好きなことを作ってお裾分け的に発表しておくのだ。
主は、作ることにある
従が、発表である
PVを追うと、しばしばこの関係性は逆転するが、代謝としての創作は、代謝物を発表するだけなので主従が入れ替わることはない
「バズらなくても作っていいじゃん」と言い換えてもいいかもしれない。
バズらなくてもいい、というと、自分の中の別の人がこういうことを言ってくる
売るという観点では、バズらなければ負けである。バズらなくってもいい?そんなものはふにゃおすな言い訳だ。話題にならなかった時点で負けだ。売るという目標を掲げている以上、売らなければならない。売れなかった時に精神的ダメージを回避するために後から別の軸を探すな。それなら最初から売るとか言うな。
しかし、売るということが、あまりにもでかい顔をしていると思わないか?話題にならなければ作れないなら、世の中のほとんどの物は最初から作らないわけだし、そのような考えは有害だ。どうせ、少しでも成功すると好きなこととマネタイズの苦悩が確実に待っているのだから、最初から考えなくてもいいのだ。