動物化するポストモダン
https://scrapbox.io/files/64bff6148243a5001c061d11.jpeg
◇タグ
オタクからみた現代社会とオタク、
モダン
近代
近代の超克 京都学派
近代化
ポストモダン化した文化侵略
↓
フォームの確立
↓
オタク文化
二次創作はミクロ的なこれらの、
日本的フォームの開発及び文化の差異化プロセスの極小
シュミラークル
(コピーとオリジナルのフラット化)
※ボードリヤール
動物化したアメリカ社会
スノビズム化した日本社会
80年代の幻想
ナデシコ
江戸と銀魂
セイバーマリオネット
そのような無数の模倣や剽窃の連鎖のなかで生み出されている。
大きな物語の凋落
ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した 「大きな物語の凋落」
一八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、
成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、
その働きを前として社会が運営されてきた。
思想的には人間や理性の理念
政治的には国民国家や革命のイデオロギー
経済的には生産の優位として
「大きな物語」とはそれらシステムの総称。
ポストモダンではこれらの物語が機能不全になる
社会学者 大澤真幸「オタク論」
〜オタクたちにおいては内在的な他者と超越的な他者の区別が「失調」しており、
そのため彼らはオカルトや神秘思想に強く惹かれるのだと分析している(注2)。
ここで「内在的な他者と超越的な他者の区別」というのは、
平たく言えば、自分の身の回りにある他人の世界(経験的世界)と、
それらを超えた神の世界(超越的 世界の区別を意味する。
オタクたちはその両者を区別できず、結果サブカルチャー を題材とした疑似宗教に引っかかる そのような失調は、かつての近代社会では個人の未成熟として切り捨てることができた。ポストモダン社会では簡単にはいかない。
私たちが生きているこの社会そのものが、
いまや大き物語の失調によって特徴づけられるものだからだ。
伝統に支えられた「社会」や「神」 の大きさをうまく捉えることができず、
その空白を近くのサブカルチャーで埋めようとす るオタクたちの行動様式は、
ポストモダンのそのような特徴をよく反映している。〜
オタク文化はこのように、
シミュラークルの全面化と大きな物語の機能不全という二 点において、
ポストモダンの社会構造をきれいに反映している。
もうひとつは、オタクたちの行動を特徴づける虚構重視の態度である。
その態度は、 彼らの趣味だけでなく、また人間関係も決定している。
オタクたちの人間関係は、親族 関係や職場のような社会的現実(と呼ばれるもの)とは関係なく、
アニメやゲームの虚構を中核とした別種の原理で決められていることが少なくない。
その振る舞いはオタク以前の世代からするとモラトリアムや退行にしか見えないため、
ここにときに軋轢が生じることになる。
✅ポストモダンの議題
1)ポストモダンではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークルが増加す る。
それはよいとして、ではそのシミュラークルはどのように増加するのだろうか?
近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、
ポストモダンでシミュラークルを生み出すのは何ものなのか?
(2)ポストモダンでは大きな物語が失調し、
「神」や「社会」もジャンクなサブカルチ ャーから捏造されるほかなくなる。
それはよいとして、ではその世界で人間はどのよう に生きていくのか?
近代では人間性を神や社会が保証することになっており、
具体的 にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、
その両者の優位が失墜した あと、人間の人間性はどうなってしまうのか?
投射モデル
データベースモデル
符号化とデータベース
オタク的に言えば
小さな物語
キャラやストーリー
大きな物語
フォーム 世界観 もっと大きな現実の物語
ポストモダニズム
現実より虚構
否
社会の規範が細分化され、
大きな物語の凋落
「大きな物語」とは?
単一の社会規範 国家 政治 人権
データベース的世界
「小さな物語」 「設定」の二層構造とは、見せかけと情報の二層構造のことで ある。物語消費に支配されたオタク系文化においては、
作品はもはや単独で評価されるこ と とがなく、その背後にあるデータベースの優劣で測られる。
そしてそのデータベースはユ ーザーの側の読み込みによっていくらでも異なった表情を現すのだから、
ひとたび「設定」 を手に入れてしまえば、
消費者はそこから原作と異なった二次創作をいくらでも作り出すことができる。
データベース=設定があるのでいつでも読み込んで、
シミュラークル=二次創作が成立する。
エヴァ
Miyabi.iconシュミラークルをシュミレートしたオリジナルというねじれ
二次創作の前提化 メタと主観
オリジナルキャラのオリジナナリティすら、属性、キャラとしてしか機能しない。
キャラは萌えという上位概念にカテゴライズされ、
そこからデータを得てシュミラークルは無意識的に成績されるようになる?
Miyabi.iconこれって単に「影響」のプロセスを説明し直してるだけでは
キャラクター シュミラークル
萌え データベース
企画はシュミラークル
キャラや設定はデータベース
大きな物語の凋落
大きな物語の捏造 物語消費
データベースとシュミラークル化
近代小説が現実の写生なら
オタクは虚構の写生→スーパーリアル
シュミラークル論の欠点
従来のシミュラークル論では
シミュラークルの増加は、オリジナルとコピーの区別が失われたところで生じる
無秩序な現象だと捉えられることが多かった。
根拠となる引用は、
ウォルターベンヤミン、「複製技術時代における芸術作品」
作品の存在を、生み出した儀式の1回性によって根拠つけられるものだが、複製技術はその感覚を無効にしてしまうと主張した
ポストモダンは、スリーモデルが単に崩壊したのではなく、
データベースモデルにとって変わられたことにあまり自覚的でなかったように思う
ボードリヤールはハイパーリアリティーと呼ぶ。
雑賀された商品や記号が大量にストック流通され、
今や消費者はその組み合わせでしか小瀬=オリジナリティーを表現できない。
村上隆批評
萌え を捉えきれていない
オタク的なデザインが最も過激でも、根拠の部分を抽出し、純粋化して作られた作品群である
オタクたちにとってすれば、その 試みはデータベースを理解することなしに、
デザインと言うシミュラークルだけ抽出して模倣した不完全なものでしかない。
萌え
客観的に見れば過激だが、作者本人は萌え要素の組み合わせに過ぎないため、
その過激さを自覚していないと言う構造がしばしば起きている
その意味では、村上作品は、 このような無自覚を破るきっかけにはなる
スノビズムと虚構の時代
ポストモダンでは、超越性の観念が凋落するとして、そこで人間性はどうなってしまうのか?
以上のようなデータベース、消費の台頭や、ポストモダンの2層構造が何を意味するのか、日本の状況を離れ、世界史的な視野の中に位置づけておく
ヘーゲルの精神現象学と近代
ヘーゲル哲学は一九世紀の初めに作られた。そこでは「人間」とは、まず自己意識をも つ存在であり、同じく自己意識をもつ「他者」との闘争によって、絶対知や自由や市民社 会に向かっていく存在だと規定されている。
ヘーゲルはこの闘争の過程を「歴史」と呼ヘーゲルは、この意味での歴史は、一九世紀初めのヨーロッパで終わったのだと 主張していた。
彼は、ちょうど近代社会が誕生するとき、まさにその誕生こそが「歴史の 「終わり」だと宣言していたからだ。彼の主著『精神現象学』が、ナポレオンがイエナに侵 攻する前日、まさにそのイエナで脱稿されたというのは有名な話である。ヘーゲルののち、二世紀のあいだ近代的価値観が全世界を覆っていったという現実
重要なのは、その後のコジェーヴの読解
戦後、
アメリカの消費者を(動物
アメリカ的な生活様式を動物への回帰とした。
「人間」の規定との相対化
アメリカ的な生活様式の追求(動物への回帰)
コジェーヴが解釈するヘーゲル哲学では、
サピエンスはそのままで、人間的なわけではなく、
人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない
「自然との闘争」
したがって、消費者のニーズを満たす商品に囲まれ、メディアが要求するままにモードが変わっていく。
戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的と言うより、むしろ動物的と呼ばれることになる。
そこでは飢えも争いもないが、哲学もない。
スノビズム 日本的
与えられた環境を否定する。実質的理由が何もないにもかかわらず、
「形式化された価値」に基づいて、それを否定する行動様式
切腹 実質的には理由がないのに、形式的理由で自殺する。
↓
しかも、ほとんどなんの影響もない。
純粋に儀礼的に遂行される切腹では、自然との対立が本能との対立として行われるが、
それはもはやいかなる意味でも歴史を動かす事は無い
オタク的感性は、実質的な価値から形式的な価値「趣向」を切り離すことで成立する
岡田斗司夫『オタク学入門』より
”騙されているのは、承知の上で本気で感動したりもする”
スノビズムの特徴そのもの
ポスト歴史の新人類、オタク
コジェーヴ
”ポスト歴史の人間は、その形式を内容から切り離し続けねばならない
それは内容を行動によって変質させるためでなく、
純粋な形式としての自己を何らかの内容として捕らえられた、自己および他者に対立させるためである。”
ポスト歴史の人間=オタクたちは、
オタク系作品の価値とパターンを知り尽くしていながら、
そこからあえて趣向を切り離す。
つまり、
「形式を内容から切り離し続ける。
しかしそれはもはや、作品から意味を受け取ったり、また社会的活動に踏み出したりするためではなく、
純粋な傍観者としての自己」を確認するためである。
オタクたちは、このように、コジェーヴが五〇年前に予見した
「ポスト歴史」の生存形式をある意味で体現している。
スノビズムはシニシズムへ
スラヴォイジジェク
スナップで私に彼の宿題は世界の実質的価値を信じない。しかしだからこそ彼ら形式的価値を信じるふりを止められないし、特にその形式=見かけのために実質を犠牲にすることもいとわない。
ジジェクは「だからこそ」を主体の能動性と捉えた(UCガンダム)
形式だとわかっていても形式に従う。
例 スターリニズム
第一次大戦で壊れた啓蒙や理性への信頼
その時フロイトは死について考え、ハイデガーやシュルレアリスム、ジャックラカンが影響を受けた。
つまるところ、実質と形式(フォームのねじれ
世界単位で見れば、大戦中のシニズムの現れの一つ
大きな物語の捏造から廃棄へ
部分的ポストモダンから全面的なポストモダンへの大きな流れは、そこに生きる人々の(動物化)を意味する。
70年から95年までを虚構の時代として捉えれば、95年以降の時代を動物の時代と名付けられる。
WWW
HTML 不可視から可視へ
ユーザの画面は解釈にすぎない ので、
不可視の部分がデザイン的価値に含まれると言う価値観
超平面的なシュミラークルの世界は過剰に透視的で並列的
多重人格的な、フラット
多重人格とデータベース的シュミラークルは似ている
オタクとメタバース
多重で並列的な記号とそれを読み取り、解釈し、楽しむ態度