記号
シャノンコミニケーションとCPCの明確な違いは、閉鎖系同士か開放系同士かだと思います。
その意味では、個体で知性的にふるまう閉鎖系を考えると、記号コミニケーションを抜きに考えるのは難しいように思います。しかし、例えば無核粘菌のような知性を考えると、逆に記号コミュニケーションを想定するのは難しいです。それこそ、「信号自体が記号のような働き」をしているといえますが、そうすると記号とシャノンコミニケーションを根本的に分けているのは、情報伝達の媒体としての記号or情報ではなく。知性体の定義によるものと考えられます。(CPCも一つの巨大な表現学習としてみなせるなら、個体という単位で知性を考えるのは自然ではないかも)
少し話がそれましたが、記号であるか、情報であるかは、情報伝達の複雑さによる。
①開放系かマルチエージェントシステムかは認識論の問題(どう見るか)
②記号コミュニケーションか情報かは、究極人間にとって記号っぽいかどうか
②ですが、神経系の通信を記号コミュニケーションとみなすには直感として無理があるわけですが、ある種の秩序をラベルとして共同化しているともみなせます。
露口さんのお話で
池上先生と落合先生たちにシンポジウムで
「言語には限界があり、言語で描写できる外側に大事な要素がある気がする。かつてジャンクDNAと言われていた不活性DNAが実は生体内で非常に大事だとわかってきたように。だが言語を超えたコミュニケーションはどのようなものになるのか?」と質問していたのが懐かしくなりました!笑(言語で描写できるアテンションと非言語で描写できるアテンションで棲み分けありそうだよねっなどと議論しましたが結局明確な解は当時は出なかったような記憶です)
これはかなり示唆的だと思います。
例えば、語と遺伝子を類推したミームやナラティヴの概念では、「語の変異率」や「物語の変異率」を考えることがありますが、何が定着するかは結局わかりません。不活性ミームや不活性ナラティヴが大量に生まれ、適応度に寄与するのは一部です。
「意味不明な変異が蓄積していること」が共に重要視されるわけです。
「意味不明な変異」は「どこに蓄積しているのか?」が、言語で描写できるアテンションと非言語で描写できるアテンションをつなぐと考えます。
CPCでは、個体の内的表象形成と集合的予測符号化の2つのダイナミクスを考えるわけですが、そのどちらも変異を蓄積しそうです。「記号コミュニケーションとみなすには無理がある」状態の情報のやり取りがあると考えられます。
例えば、アニメの絵柄にはトレンドがありますが、これも誰かが決めているというものでもなく、描かれた絵柄が集合的に変異していきます。個々の変異に意味はなくても、全体としては意味を持ちます。語の意味変化もアニメのイラストもその側面があると思います。
記号化されない個体の解釈、内的表象形成は必要である。(社会のCPC目線から見れば純粋に情報とみなせる)
しかし、記号が必要ない超知性は在り得るのか?となると、やはり「人類にとってはそう見えるが、情報のインタラクションを行う以上同じ枠組みで語れる」のでは?もっとも、理論的には語れるはずだ、というのと、理解できるかは別だろうとおもいます。
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