現実世界とバーチャル世界の距離における違和感
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現実世界で距離が離れていても、バーチャル空間やインターネット空間ではその距離を無視して交流することができる。
→言葉にすれば当たり前のこと。
しかしこの当たり前の中に存在する違和感があり、それは単に物理的な距離感だけでなくそれ以外にも存在する言語化できていない様々な違和感が隠れている。(とmatsuzen.iconは感じている)
最終目標としてはこの溶け込んだ感覚的違和や溶け込んでいる状態そのものを表現する、あるいはインターネット空間で希薄になる身体性と同時に、インターネット空間に存在するユーザーの実在性の矛盾を示す事になる?
matsuzen.iconインターネット空間で身体性が希薄になるというのは、インターネット上に発生する異なる身体性(あるいはそれに類するもの)が生まれることを意味する(?)。→そこには現実の論理は通用せず、距離の概念においても現実と異なる論理に基づき決定され、それにより違和感が発生する?
違和感の要素の例としての身体性
バーチャル空間の身体性と関連(要調査)
人と人の関係は一見すると点と点を結んだものとみなされているが、点としての人を包み込むように実際は身体や衣服があり点を包み込む厚みとして存在する。しかしバーチャル空間においてアバターを着ることで変容する点を包む厚みや点そのものはどう変容するのか?等
matsuzen.icon人は単に人同士の繋がりだけではなく、その環境などのなど空間も大きく作用する?(衣服は環境から決まるので)
バーチャルYouTuberが存在する空間は、人間中心的・デカルト主義的なリアリティの再現と(シネマティズム)、そうではない全く異なった世界観の上で成り立つリアリティの再現(アニメティズム)という相反する2つの要素によって構築されている。→バーチャルYouTuberに具体化する人間観と身体観
matsuzen.iconバーチャルYouTuber=アバターを纏った人、VTuberの配信空間=仮想空間と見ることも可能。→違和感の正体はシネマティズムとアニメティズムという相反する2つの要素のせい?→しかしアバターを持たない一般的なSNS等でのつながりにも同様の違和感は存在する。
同じもの?違うもの?分けて考えるべき?
距離の違和感
冒頭で述べた通り、現実空間で距離が離れていてもバーチャル空間やインターネット空間ではその距離を無視して交流ができ、その距離に対して違和感が発生するのはある種自明的ともいえる。
matsuzen.iconこの違和感は現実との乖離が生み出している?
スマートフォン、AR、VRという3つのメディアを現実乖離度で並べるとスマートフォン(現実とバーチャルが完全に分離している)→AR(現実とバーチャルが混ざり合う)→VR(現実が隠れる、自身の身体性以外の現実を感じれなくなる?ファントムセンスなどにより場合によってはそれすらもなくなる?)となる。
現実とバーチャルは空間としてどう異なるか?
メタバースの本質は何か?
メタバースはメディアであり、短期的「遊び」か「現実社会」かの側面が強く表れるが、長期的に遊びが規範となる仮想社会を生むと予想される。
Metaのモデルはビジネスツールとしてのメタバースの利用を推進し、あくまで現実の延長線にあるものとして作っている。
しかし、現実の再現は退屈すぎて、普及には繋がらないという意見もあり、ゲーム的な記号を導入しつつ、現実社会を再現してメタバースに住んでもらうことも大切としている。
メタバースのもつ(インターネット的な匿名性・複数人格等を内包する)メディア的な特性を確定させる事が重要。→Metaはネット新住民に対してこれを再構築しようとしている。
メタバースは未だコンテンツの領域にあり、メディアとして未完成である。
メタバースはインターネットとそれに接続できるPCで構成され、空間を共有するという特性を持っている。→マクルーハンのメディアは空間と時間を再編するという論との関連
メタバース時代にはこの環境コンピューターが主なメディアとなるが、全貌は未確定で、メタバースの発展を通じて確定していく。
matsuzen.icon距離の違和感はこのメディアが未発展な状態だから発生する違和感?
そもそも未発展な状態のメディアの場合、それは表現可能なのか?あるいは表現しても良いのか?
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