アルゴリズム的統治性は再帰的な主体を棄却する
統計学によって、
主体の情報を集めたビッグデータからわかるテクノロジーは、似ている人を算出し、 嗜好や思想や犯罪を犯す可能性までもを算出する
対して、アルゴリズムによる統治には、反省によってその人の考えや行動が変わっても、それは外れ値として処理される たとえばwho.iconさんにテロを起こす気が仮にあったのだとしても、規律訓練によって反省して、テロは悪いことだと生権力的に考えを改めた。それは主体を規範から要請されたということ。これが近代の生権力。 一方でアルゴリズムによる統治では、who.iconさんが反省して考えを改めても、変わらずテロを起こす気がある人と判定されて、逮捕されたり、あるいは、ローンを組めなかったりする。
人生の一回性の否定、でも功利主義でもないみたいな話かもしれないterang.icon 予防の倫理学とはどう接続できるだろう?terang.icon も呼び起こす
これらは、終焉したと思われた大きな物語の続きにも見える。特に2010年代において。 近代デモクラシーの父とも呼ばれるルソーの帰結としてアルゴリズム的統治性を説明するのは面白いterang.icon そして当然、ファシリテーターがつくる場は、このタイプの統治を拒否する。
東も同様にこの考えに反発する。
ゆえにその暴力性を委任(represent/表象/代表)するためにルール(法)が必要で皆が守らなければならないと、社会契約の理路を示した。 対してルソーにとっての自然状態は、牧歌的な原始人的生活で理想的なもの。
しかし、誰か一人が「ここは自分の土地だ」とか「ちょっと必要以上に在庫しておこう」と欲望を喚起したとき、「じゃああの人が自分のものと所有権を主張するのなら自分だって」と連鎖的に争いが始まってしまう。 それは理想から離れてしまうこと。
だからその理想的な状況のためにルール(法)が必要で、皆がそれを守らなければならない、とした。
…と東。
ルソーは原始的生活を理想としたというより思考実験的な話ではなかったっけ。まあ奇人ルソーの心のうちを想定するはなかなか難しいので保留terang.icon
特殊意志とは個人の意志のことで、全体意志とは特殊意志の集合。
全体意志は単なる私的な利害の集まりで、一般意志には公共性が宿る(とルソー)
けっこう謎。
ルソーによれば、一般意志は常に正しいらしい
一般意志が死ねと命じるならば個人は従わなければいけなくなる
ルソーの時代にはなかったが、現代では発見された2つの当時からの変化。
一般意志とは自分では意識できないような何かの集まりなのでは?という説明は意味が通じやすい
2. 統計の技術
自分では何を欲しているか無自覚でも、統計的に表されると、「ああ、それが自分は求めていたのだな」と言うことは、統計的な操作の後で認識できることがある
ルソーの時代は国勢調査さえまだなかった。
ルソーの言いたかったこと、「死ねと言われれば死なざるをえない」の必然はこのようなところにあるのではないか?
「民主的ではない」「民主主義の敵」と言われがちだが、
対立しているとは、単純には言えない。