発信を承認欲求に使わないようにする
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栄光の好機
とても良いメモだと思った
そもそも「教える」ということが「教える人という立場を得ることによって承認を満たす」「自分の知っていることを伝えることによって周りの人を強化したい」「自分の考えを伝えてフィードバックを得ることによって自分の考えを発展させたい」など人によって異なる目的によって行われているのでは。
「何かを発信してツッコまれることに対してあまり恐怖を感じていないように見える」と評されたことに関して、結局のところそれは「あなたの考えは素晴らしいですね」と言ってもらって承認欲求を満たすためではなく、発展につながる情報を求めているからなのではないか
> 賛同されるのも、見当違いな批判をされるのも、価値としては変わらない。もちろん機械ではないので後者の方が不快だが、不快に思うことの責任は自分にあるので速やかに忘れる努力をする感じか
教えることで承認を満たすのは、一時的に自分の快楽に近い
逆に、ネガティブ・フィードバックがあった場合に、苦痛や怒りになりやすい
それ以外の2つは、変化や成長に繋がって、個人的には望ましい
ネガティブ・フィードバックすらも成長に繋がりやすい
まあ本能的には苦痛や怒りを感じてしまうかもしれないけれど、リフレーミングがいかにできるかにかかってる 承認欲求目的にしてしまうと、承認してもらわなかったり反応が無かったら発信自体をしなくなるので、それは避けたい 発信は、「周りへの共有」と、「フィードバックを貰うことによる成長」を主目的に置く。これを忘れない
自分はこんなのを読んでいるんだぞ、という事を他人に自慢したい
難しい内容を読んでいて僕は賢いんだぞ
非倫理的な行動をバッシングする正義感に溢れているんだぞ
自分にはこんな意外な一面もあるんだぞ
自分の心にグサリと刺さった
多分、そういう気持ちでシェアしてること多い
シェアする= 何かしらの目的がある。それは大体においてジマンパワー
まあ、自分の興味分野を公開する自己開示とか、公開用のメモという意味もあるけど、やはりジマンパワーが強い
SNSでシェアされるかどうか最適化されている。それにまんまと引っかかっている。
でも他人のジマンパワーって見てもそんなに気持ちよくない
「へー!凄いですね!」って言わせたいのか?と思うような発言を見るのは、辛い
承認欲求を満たさないと自己を保てない時もある
言い方がかなり大事
発信の目的が、ハッキリと「自己開示」「周りへのノウハウ共有」「自分のメモ」「アウトプットによる記憶強化」であることが分かる場合は良さそう
読む側が勝手にジマンと感じるかもしれないけれど・・・
それはどうしようもない
自分もそういうやつにはなりたくない
人がある物事や言動を認識したときに「善意に取るか」「悪意に取るか」・・・それはその当人に委ねられている。
自分を分かりやすい人にするために発信する