教えることの目的は人によって異なる
先日の「
なぜ教える立場であり得る人が学ぶ立場を取るのか
」という話、そもそも「教える」ということが「教える人という立場を得ることによって承認を満たす」「自分の知っていることを伝えることによって
周りの人を強化
したい」「自分の考えを伝えてフィードバックを得ることによって
自分の考えを発展させたい
」など人によって異なる目的によって行われているのでは。
「アイデアを公開したら誰かが改善してくれる」というナイーブな思考は「オープンソースで公開したら誰かが開発を続けてくれる」に似たもので、極めてレアだということを痛感していて、だから
フィードバック
によって発展「してもらえる」とは考えておらず、得られたフィードバックから
自分が取捨選択
して発展させるつもりなのだろう、だから「
ランダマイザ
」などの言葉になる。
自分の視点とは異なる視点からの情報が得たい
わけである。
「何かを発信してツッコまれることに対してあまり恐怖を感じていないように見える」と評されたことに関して、結局のところそれは「あなたの考えは素晴らしいですね」と言ってもらって承認欲求を満たすためではなく、発展につながる情報を求めているからなのではないか
賛同されるのも、見当違いな批判をされるのも、価値としては変わらない。もちろん機械ではないので後者の方が不快だが、不快に思うことの責任は自分にあるので速やかに忘れる努力をする感じか
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教えることの目的
は人によって異なる
教えることの
目的は人によって異なる
立川 智也
教える立場
学ぶ立場
『教わる役』『教える役』の固定化
周りの人の強化
自分の考えの発展
自分の視点とは異なる視点からの情報
他人の視点