岩倉具視
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1825年10月26日(文政8年9月15日)- 1883年(明治16年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。
岩倉使節団の知識しかなかったが、wikipedia を見ると非常に多くのことを為された人のようだ
廃藩置県があった同じ日、岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任している。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。
使節団には外務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議・木戸孝允や大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文らを副使として伴い、1871年(明治4年)11月に横浜港をたち、1年10か月にわたり欧米諸国を巡り、各国元首と面会して国書を手渡したが、条約改正の糸口はつかめなかった。
この旅の中で岩倉は各国で激しいカルチャーショックを受けた。アメリカは岩倉の想像をはるかに超えており、よほど衝撃的だったようで三条に宛てた書状にも「殷富を進むるにおいて意想の外を出るに驚嘆」とまで称している。さらにその原因は鉄道にあるとし、日本の繁栄も鉄道にかかっており日本の東西を結ぶ鉄道の設置が急務とする。岩倉が帰国後日本鉄道会社の設立に積極的に携わったのもそのためである。
1883年(明治16年)初め頃には咽頭癌の症状がはっきりと出始めていた。岩倉は5月25日には京都御所保存計画のため京都へ赴いたが、ここでますます症状が悪化する。これを聞いた明治天皇は、勅命により東京大学医学部教授をしていたエルヴィン・フォン・ベルツを京都に派遣して診察させた。岩倉はここでベルツからは癌告知を受けたが、これが記録に残る日本初の癌告知である。
記録に残る日本初の癌告知者だった