伊藤博文
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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、旧字体: 伊藤󠄁 博󠄁文󠄁、天保12年9月2日〈1841年10月16日〉- 明治42年〈1909年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。 明治時代に、4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣(初代、5代・7代、10代)を務めたことで知られる。一次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清講和条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治に道を開いた。他、初代総理大臣 初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した。 日露戦争開戦には慎重だったが、日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任。韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の独立運動家安重根に狙撃されて死亡した。