[エッセイ]牛がいた頃(京都北野天満宮編)
2023年8月5日(土)
北野天満宮は午前7時から開門する。晴れた夏の朝、大きな白い石の鳥居が空をさわやかに突き抜けていた。京都の北野天満宮の門前の巨大鳥居は、お参りにやって来るたくさんの参拝者を受け入れるために相応しい大きさのあらわれだろう。けれど、もしかするとその門をくぐるのはたくさんの人だけではなく、鳥居のサイズに見合った大きな巨人だったりするのかもしれない、とさえ思う。
鳥居の左右には大きな笹が添えられ、色彩豊かな短冊が実る様に揺れる。北野天満宮は七夕を旧暦で祀るため、新暦に直すと8月になる。鳥居の西側には木製の駒札が掲げられる。「令和九年菅公御神忌千百二十五年半萬燈祭」菅公とは菅原道真公のことで、当時の権力争いに破れた菅公は、今の福岡である太宰府に流されて、そこで一生を終えるのだけれど、菅公の無念が雷になって京都に災いを起こすとされ、その御霊を慰める目的で建てられたのが北野天満宮、947年に創建された。
もともと菅原道真公は牛と縁が深い。菅原道真公は丑年丑の日に生まれたとされ、子どもの頃には牛とよく遊び、今の福岡の太宰府に流される途中の大阪で暗殺されそうになった菅公を牛が助け、死んでからも菅公の遺言通り、墓の場所は亡骸を運んでいた牛が決めて、今の太宰府天満宮ができた。そんな菅原道真を祀る北野天満宮の神使は牛だ。
参拝客が賑わう正月とは異なり、夏の朝の境内は人が少なく見晴らしが良い。境内を散策すると臥牛の像が至るところに点在する。今日だと参拝客よりも牛像の方が多そうだ。
境内の片隅ではムシロが並べられ、土用干しが行われていた。干されているのは北野天満宮の境内の梅の木から採れた梅の実だ。梅の名所でも知られる北野天満宮は、境内の梅の木から収穫された梅の実の量は相当なもので、それを干すためには、すのこが何枚も重ねられ、間にムシロが敷かれ、梅が並ぶ。ささくれだったムシロの重なりの間に、赤い実が挟まる様子がとても素朴だ。ムシロはささくれだっていればいるほど、年季が入った代物の様でいて、この場所にふさわしい梅仕事の道具に思えてくる。
北野天満宮の梅の花は、1月末から咲き始め、2月3月に見頃を迎え、梅雨の6月に青い実がみのり、採った実は梅干しにされるべく塩漬けが施され、8月に土用干しをする。それが翌年の正月用の縁起物の大福梅となるので、北野天満宮では一年を掛けて人と梅との関係が織りなされることになる。その梅仕事の一端を垣間見ながら、牛も梅もどちらもウから始まるなどとぼんやり思いながら、通り過ぎ、御本殿のお参りを済ます。北野天満宮の地名が馬喰町であることの手がかりが何かないかと境内の散策を続けながら探すけれど、これといってそれを記す掲示も見つからない。
境内の掃除をされている男性から教えて頂き、文道会館を訪ねてみる。そこでようやく馬喰町の命名の糸口をお伺いすることが出来た。一つは「右近馬場(うこんのばば)」という地名に関係があるというのだ。右近馬場は、最初の正面の白い大きな鳥居をくぐり、参道が続くその東側、現在は駐車場になっている場所で、右近馬場がなんたるかの説明を掲げた木札もある。右近馬場は、もともと菅公の生まれる前、つまり北野天満宮が出来る前から、そこが馬場であった歴史を示す。道真もここで馬の稽古をしていたそうだ。また時代によっては競馬場もあった。
また風習からも馬喰に関係するのではないかということがあり、牛の社参という北野天満宮ならではの文化がある。右近馬場に何十頭という牛がズラーっと並ばせ奉納する風景が、古い写真に残っているそうだ。それぞれの酪農家や牛を育ててる方々が、北野天満宮に自分の牛を連れてきて、お参りをさせる。写真は昭和初期と推定されるが、その牛の社参の文化はずっと以前からある。牛の社参は、格付け、品評会でもあったそうだ。牛市や競りが行われていたのが日常的なことなのか、または年に1回程なのか、例えば十二年に一度丑年のタイミングなのか、開催頻度まではわからないが、行われていた事実はあるという(※)。そこまで牛が揃うことはここ近年はないそうだが、今でも12年に一度、丑年のお正月には必ず、京都の牛が御本殿前までお参りをする風習は続いている。直近の丑年、2021年にも行われている。
現在の北野天満宮と牛についての関係は、飼牛札という形でも残っている。飼牛札は、一般的な家内安全みたいなものではなく、天神さまに牛の健康と、牛飼い業の人の繁栄を願って授与するお札になる。現在では、このお札を求められる機会はなかなか少ないけれど、まだ残っている。
こうして天神さんと牛、右近の馬場、牛や馬が集まる場所だったから「馬喰町」という名前になったとされる。
地図を見ると馬喰町という地名になっている場所は、現在の北野天満宮の敷地よりもさらに広い。なぜ北野天満宮を超えて馬喰町という名前が地名に残るのかというと、現在馬喰町と呼ばれる場所までが、もともと北野天満宮の境内だった。北野天満宮の一の鳥居の前の通りを越えた警察署付近も、さらに北野商店街の目の前まで、地図では全て馬喰町の地名を指す。地名に境界線の跡が残っているとは、指摘があるまで知らなかった。
2024年4月30日(月)その後の調査で、日本には他にも地名に馬喰・博労と名前が残る地域があり、そこでは牛馬市が立っていたことが多いそうだ。城下町には牛市がよく立っていた。調査過程を経て、北野天満宮の方からお伺いしたお話を改めて見直してみると、日本の牛馬文化の歴史的な文脈が、北野天満宮の歴史にも存在していることがわかる。ずっと身近にある大きくて有名な神社が馬喰町という地名であることを知り、そしてそれをきっかけに、新しい視点で北野天満宮に触れてみると、多様な牛の文化がきちんと残されていた。
******
文献で北野天満宮をあたると、牛飼いという言葉が出てくる。平安時代(794年~1185年)に牛を飼っていた人のことだ。その頃はまだ牛飼いを博労とは言わない。
タイムトラベルみたいに突然に、歴史がとても古くなることに京都らしさを感じる。
牛飼い時代の牛の仕事は牛車をひくことで、牛車は貴族官人が朝廷への往復や祭り見物等の外出時に用いた乗り物である。
牛車は貴族たちの交通手段であったと同時に、身分秩序を表す乗り物でもあった。だから鎌倉時代に書かれた牛の見本帳『駿牛絵詞』『国牛十図』は、牛の品定め帳ということでもある。このころは大きくて猛々しい牛、色は黄斑牛、白牛が人気だったようだ。
牛をあつかうのが牛飼いだ。牛は馬よりも調教が難しいとされる。牛は何かの刺激で突然暴走する。獰猛で巨大な牛を操るために童のもつ呪術的な力が期待され、牛飼いは成人しても烏帽子を着けず、髪を子供のように垂らしていた。また、牛飼童が喧嘩っ早いことは文献上にもよく残っているそうで、荒々しく自由奔放な性格、人間の秩序を超越した存在と認識されていた。一方で、事態に対する臨機応変に対応する能力や、主人に従う忠誠心も必要とするのが牛飼いの役目だった。
清少納言(966年頃ー1025年頃)は平安時代中期、また当時は少なかった女性の作家・歌人である。『枕草子』という随筆集に理想的な牛飼いについての記述も残している。
「牛飼はおおきにて、髪あららかなるが、顔赤みて、かどかどしげなる」
現代語訳を参照すると「牛飼は大柄で、髪の毛は剛毛、顔は赤く日焼けし、態度や性格はてきぱきとしているのがよい」となる。
また、清少納言は牛車の出てくる随筆も残している。季節の花を牛車に飾った話(「五月の御精進のほど」)や、月夜に牛車で川を渡りその牛の弾く水が水晶のように美しかった話(「月のいとあかきに」)など、自然豊かな郊外へ牛車に乗って出かける場面が描かれている。平安時代の京都の風景や貴族の暮らしや感性は現在とはまた全く異なっていて美しい。貴族にとって牛車は生活の一部であり、遠くへ連れて行ってくれる牛車は大事にされたのだろう。
参考文献:瀬田 勝哉 2015年「変貌する北野天満宮」平凡社
https://gyazo.com/01fa57103368400377def4348cf30010
北野天満宮の一の鳥居
https://gyazo.com/78aa8613d43961b0197c70904812a369
北野天満宮の境内にいる臥牛
https://gyazo.com/349d59bfa61245227e67ec2f78ed3c4b
大福梅の土用干しの風景
https://gyazo.com/5c2b405b6a01cd1170a3b0a2b538c6df
右近の馬場を解説する木札
野咲タラ