[エッセイ]牛がいた頃(大阪吹田・国立民族学博物館編)
2023年8月5日(土)
太陽の塔はその日も大きかった。午前中に見た北野天満宮の鳥居は大きかったけれど、高さは11.4メートル、70メートルの太陽の塔はそれよりもだいぶ大きい。 太陽の塔は1970年の日本万国博覧会の際に作られた、芸術家の岡本太郎がデザインしたものだ。同じく当時万博にかかわった粟津潔は、ダイダラボッチのテキストを残している。国造り伝説の巨人で関東に伝説が多く残るダイダラボッチは北野天満宮の鳥居より太陽の塔よりももっと大きい。「おおきいかたち」(粟津潔『デザインの発見』三一書房、1966年収録)には農村と都市の双方に意識が向けられ、その境界線を不明で混沌とさせる。<かたち>の中にいると、その<かたち>の変様はわからないという。
だけど、地球はダイダラボッチよりもさらにずっと大きい。
今回の展示を企画したのは、国立民族学博物館教授の池谷和信氏。対談登壇者は探検家の関野吉晴氏だった。対談後には、池谷氏と関野氏による展示解説もあった。
以下に引用するのは対談における広報用紹介文である。
約700万年の人類の歴史のうち、狩猟採集生活の時代が99.8パーセントを占めるといわれています。この時代に、共感力に富んだ社会性を育んだ人類は、地球全体へと拡散することに成功しました。その後、農耕や近代文明を発達させてきましたが、人間性の基盤をつくった狩猟採集の文化はいまも世界中にみられます。人類拡散の旅路を逆ルートからたどった探検家と、世界各地の狩猟採集社会の調査を続ける研究者が語り合い、ハンターをとおして人類の普遍性や未来をさぐります。
狩猟ははるか昔に人類の生息域を地球全体へと拡大することを可能にしたという。そして登壇の両者は、現代でもまだ残っている世界中の狩猟文化を長年に渡って体験されてきた。それぞれが見聞きし体験してきた狩猟文化を、池谷氏はお話好きな感じで、関野氏は淡々と過不足ない語り口で、語り出す。両者は狩猟文化という共通の興味関心を持つが、そのアプローチの仕方は異なる。池谷氏は狩猟を研究対象としてフィールドワークをする。片や、関野氏は相手を研究対象とすることを避け、現地の人たちに頼み込んで定住生活をする。滞在時に役に立つために、医学部に入り直して医者になるほどだ。
狩猟文化と一言で言っても、経験から語り出される事例は膨大であり、幅が広く、使われる道具や猟の仕方、対象となる動物も様々である。多くを並べると、似ているところと異なるところが出てくる。
講演対談で紹介されていた狩猟動物には、トナカイ、熊、セイウチ、アザラシ、クジラ、ライオン、キリン、ワニ、カピパラ、ウミガメなどがあった。展示の方にも他にも狩猟環境は、南米のアマゾンの熱帯雨林から、極寒のツンドラ地帯まで、地球上に広がっている。
獲った獲物は解体して、みんなで食べる。鯨などの大きな獲物は村全体で共食するけれど、小さい獲物は量が少ないので家族で食べる。村で食べる時は子どもから大人、老人や障害を持った人なども含めて、全ての人が獲物を食べに出てくる。
アマゾンのヤノマミ族は、カピバラを食べる。ネズミの仲間が一番美味しいらしい。ヤノマミにとっては家の中がパブリックな空間で、プライベート空間は森の中になる。
北極海のセイウチ狩りは昔からの伝統の狩猟方法で、その地域では冬の食糧でもある。フェアハンティングと呼ばれるのは、人間がやられるかもしれないから。二度とセイウチは来なくなるので銃は絶対に使わず、伝統的な銛などを使う。年間で狩猟できるセイウチの頭数は決まっている。反対に捕獲した獲物がその数に満たなければ、飢えてしまう。セイウチは放っておくと発酵する。凍っているので口に入れても最初は臭くない。だけど、口の中の温度で溶け出したセイウチの肉は、発酵食品の特徴で、やみつきになる。
地域や時代によって、国家が狩猟を管理や禁止をするようになることがある。その間に狩猟の文化や技術の伝承がなされず、衰退してしまう。ロシアやカラハリ砂漠で政府政策からの狩猟禁止令があるようで、そのような事例は一つの地域のことではない。狩猟文化の衰退へ繋がる外部要因は他にも、機械化なども挙げられる。そして、環境保護団体や動物保護団体による狩猟文化への批判も受ける。
会場からの質問に関野氏が回答したものに、「アマゾンの狩猟民たちの楽しみは?というのはよく質問されるけれど、じゃああなたたちの楽しみはなにか?」と問い返す場面があった。
「アマゾンの狩猟民にとっても楽しみは、日本にいる一般の人々と同じで、農業革命の前に歌や絵は生まれており、神話や民話もある。アマゾンの人々がすぐに戦争をするようなイメージも、無知が引き起こすよくある誤解で、戦争は最終手段であり、話し合いを重ねた上で、うまくいかなかった場合に起こる。偏見は情報がなくてバランスが悪い時に生じる。」と、関野氏は答えていた。
この展示を企画した、狩猟民推しの池谷氏は「狩猟民はつい時間を気にせずおしゃべりをしてしまいます」と、ここでも季節や時間に合わせて農作をする農耕民と狩猟民を比較して言う。タイムキーパー係りの人が「そろそろ終わりの時間です」とイベント進行の調整に入ると、池谷氏は「農耕民族が来た」という台詞を放って状況を笑いに変えていた。
対談や企画展を通じて改めて気付かされたのは、伝統的な狩猟は農耕と全く違う文化形態ということだ。それは具体的に細かな事例の言及を重ねることでも感じられる。狩猟と農耕は、食糧を調達する方法としてよく対比される。農耕は貯蓄という概念が生まれて、近代文明や経済システムへと繋がる。他方、ハンターは基本的には過去がないので後悔がなく、未来がないので不安がないという。その食糧調達方法の違いは、社会システムや文化の違いであり、そこに生きる人々の生き方や考え方の違いでもある。
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2023年7月20日(金)
友人らと粟津潔の話をしていて、粟津潔は牛の絵を多く描き残している話を教えてもらう。だけどなぜ粟津潔が牛を描いていたかの理由は知らなかった。理由について書かれたテキストが、どこかの本に収録されていると言っていた。
それ以来、その理由が気になり、ずっとそのテキストを探しているけれど、なかなか見付からない。目的のテキストを探しながら読んだ、この頃の文化人同士の座談会や対談は、農耕に関する話題が多い。時代を形作る視点の一つに農耕があったのだろう。
農耕という言葉は、今では農業という言葉に置き換わっているように思う。農耕牛が消えたのは、トラクターの登場によって農耕牛が消えたけれど、消えたのは牛という存在だけでなく、農耕という言葉も消えたのかもしれない。農耕民族とは言うけれど、農業民族とは言わない。
そう思って農耕と農業の違いを調べてみると、農耕は農作行為のことで、それに対して、農業は産業全体を指し、畜産も含しくそして、農業は経済と結びつく。
重要なのは、農業は自然そのものではないのではないかということである。よく、(都会の人は特にそうかもしれないが)農業をまさに自然そのものと錯覚しているように思う。でもどちらかというと農業は自然を相手にした経済活動である。だから、自然を人間の都合の良いようにコントロールする必要があり、コントロールすることで人間は農業を通して自然からの恩恵をより多く、確実に受け取ろうとする。それは現代社会の経済システムに準ずる。
畜産業における動物は、経済動物とも言われる。農業として評価が高いということは、経済的価値が高いということでもある。
そして、畜産の行き過ぎた経済化は、動物工場を作り出し、家畜動物たちに劣悪な飼育環境をもたらしたりして、批判対象となっている。
そして、現代社会でも世界中各地に狩猟文化がある以上に、現代社会は世界中が経済システムの上で成り立ち、経済システムで溢れている。
狩猟と畜産を、経済システムとの関係性から両者を対比的に捉えることは重要で、経済システムとは別の発展として狩猟文化を見つめたい。けれど、時代の変化や外的要因によって、伝統的な狩猟だったものが経済システムに飲み込まれ、商業化していく事例も数多くあることは、ここに言及すべきである。
19世紀イギリスで盛んだった動物愛護運動や1965年にその言葉が使用されはじめた動物福祉の視点、1970年頃に西洋哲学から動物倫理の思想がある。それらは人間と動物の関係性を問題提起する。家畜動物の工場化や過剰な動物実験を背景に、経済システムに組み込まれることで動物がモノ化され、動物の生命が軽視されているのではないかと言う問題提起は重要だ。そもそも経済システムは人間側の都合ではある。経済システムを構築することによって、人間は自然の中で社会や文化を作り繁栄して生きてきた。行き過ぎた経済システムに警鐘を鳴らすことで、動物の環境の改善を図る。
けれどそうはいってもやはり、地球上、現代における文化や社会においてその全てが、人間と動物の関係が経済システムの上で成り立っているわけではない。そのことを再確認したのが、今回の企画展示と池谷氏と関野氏の対談だった。
あらゆる経済システムに浸かりきった状態だと、自分がその中にいること自体や、世界中には他の視点から捉えるべき文化や歴史があることをつい見失ってしまう。
伝統的な狩猟文化は、まだ世界中に存在し、それを守りながら生活をしている地域の人々が様々にいる。現代社会の主流である経済システムの延長上にある関係性だけが、動物と人間の関わり方ではない。我々が生活する経済システムに基づくものとは異なる文化であるからこそ、そこから学ぶこともたくさんある。そして狩猟が今日的な経済システムとは異なる文化であれば、動物福祉や動物愛護などの基準や背景の異なるものさしでは一概には計れないように思う。外部である経済システムの側面から批判して、変容を強いることは暴力にもなりうる。動物への配慮はされるべきだと思うけれど、人間と動物は別の生き物であり、人権と同等の動物の権利を当てはめることも人間側の都合であるように思う。
人間と動物の関係性は、経済動物である家畜や、狩猟関係にある動物だけでなく、ペット動物との関係、野生動物との関係などもある。また、動物は人間との関係だけでなく、環境の中で他の動物たちと生態系を形造る役割も担っている。
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2023年6月9日(火)明治時代(1868年−1912年)の日本における動物虐待反対運動についての論文を読む。
1899年頃に路上の役馬への残虐行為が横行していることへの批判が高まり、運動化し、1902年に動物虐待防止協会を設立する。その背景として指摘されるのは、1900年前後に貧困層や工場労働者の苦しみなど、社会問題が発生して世間の注目を集めたことだ。社会的に構築された「他者の痛みや苦しみ」の視線が日本社会に広がる。
インテリ層では貧困問題の書籍がよく売れるという話を聞いた。その時紹介されていた書籍はどれも明治時代の貧困に関する本で、横山源之助『日本之下層社会』明治32(1899)年 、中川清編『明治東京下層生活誌』(『朝野新聞』に連載された明治年間の東京の下層社会に関する生活記録文章が収録されている)などだった。これらの書籍はこの論文にも取り上げられている。横山源之助の『日本之下層社会』は特に当時も(そして現在でも)評価の高いルポルタージュであり、この書籍により、「貧困問題が外部の好奇の対象ではなく、一般社会と同じ科学的な視点から分析すべき社会問題としてとらえなおされた(中川,1994:293-7)」とする。
この論文のポイントは、なぜ労働者の問題と動物の問題が同時期に提起されたか、そしてなぜその解決の順番が、先に人間の貧困や労働問題が解決した後、動物の虐待問題という順番にならなかったか。つまり、動物虐待運動へすり替わってしまったか、という点だろう。それには社会構造の問題が関係する。動物虐待運動に参加していたのが、上流階級出身者であることが重要だった。彼らは労働者の貧困や苦しみの問題に気がついた一方で、下層階級からの搾取で成り立つ階級的利益のために、社会構造の全体的な改革には至らなかった。その代わり、上流階級の人々は貧困や労働者の問題を動物の痛みや苦しみにすり替えることで、博愛主義 ・人道主義を実践させる必要があった。 そこで、それが動物愛護運動となって表れたという。
また、ジェイムズ・ターナーによる19世紀のイギリスの動物愛護運動も参照する。伝統的な農村社会と近代的な工業社会の二つの異なる社会観が交わる過渡期に、牛いじめの背景にある酒と賭博が近代的工場労働に必要な規律を乱す原因となるおそれがあることや、都市生活者にとっての農村へのロマン主義的な自然観が、牛や馬といった農場動物にノスタルジーを感じさせることに動物愛護へとつながったとする。
ターナーのこの動物愛護の議論は賛否があるようだが、19世紀の動物愛護運動におけるイギリスの事情と日本の事情の類似から引き出された結論として論文の最後には、動物愛護運動が人間社会の貧困問題に対する正義感の歪みによる表れであるような事象は、19世紀のイギリスや明治期の日本のように、農村、都市化、工業化、近代化、日本においては西洋化といった、混沌としながらも、明確な変化のある時代背景特有のものではなく、複数の社会的な力が絡み合えば、常にどの時代でもどの場所でも、容易に起こりうることと指摘する。
さまざまある社会問題の優劣を、もしくは反対に、社会問題を並列させる議論にも、その議論の方向性に沿った構造が存在して絡み合う。そのため、なぜそのような状況なのか、という個別の背景を考察する必要は十分にある。
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2023年8月5日(土)
その日の国立民族学博物館の帰り道、私は太陽の塔に食べられた。一寸法師さながら、そのお腹の中に私は生きたまま入り、古代の生命が実る赤い体内を重力に逆らって登っていく。食べることとは死んだものを身体の中に入れることだ。肉でも魚でも野菜でも、おのおの生命の終焉を迎えた上で、食べられるに至る。だから生きたまま食べられることには、それだけで幻想に満ちている。生命の樹には、狩猟時代も農耕時代も関係のない、人間が登場する前の遥か遠い時代の生き物たちの歴史が連なっていた。ほんの最後の方を除いて。哺乳類が登場するほんの最後の方だけ、かつての人間の気配があった。
2023年8月30日(水)
粟津潔がなぜ牛を描いていたのかの理由をしばらく探した後、ふと、ネットの古本屋で、牛の絵が表紙になっている粟津潔の書籍を見つけた。なんとなくこれだろうと思って、取り寄せることにした。だけどこれまでも、これだろうと思っていくつも資料を読んだけれど、そこに目的にしていた答えがないことは何度もあった。
届いたのは『粟津潔・8夜快談集―青春のこと。都市のこと。デザインのこと。』という書籍で、1984年の展覧会の際に企画された対談が8つ収録されている。書籍には、表紙にも背表紙にもカバーそで両左右にも、本体表紙裏表紙にも、折り込みされた紙にも、異なる複数の牛の絵が描かれていた。
そして、対談の内の一つで、なぜ牛の絵を描くのか、粟津潔は自ら語っていた。ずっと探していた答えが書かれてある文章は、そこが光って見えるようだった。
粟津潔が描いていた牛は、天草四郎時貞の生まれ変わりのホルスタインだった。
それは探していた答えだったのだけれど、実際は全く思いもよらないものだった。
農耕牛でもないし、和牛でもない。しかもそれはただの牛ですらなくて、天草四郎であるそれは、考えていたことよりももっとずっと、とても自由なものだった。そしてそれは出鱈目な突飛というよりも、安心する発見である。
なぜそれでないといけないのか。農耕牛を調べていくとだんだんと農耕牛が何かがわかってくる。どうやら農耕牛は和牛らしく、外国種の牛ではないらしいし、家族同然のように大切にされているけれど、人とは違う側面が多様にある。
思い返せば農耕牛についての調査は最初からずっと、思いもよらないものを手繰り寄せる作業だったようにも思う。遠くから眺めると、どこかに農耕牛の接点や手がかりがあるようで、近寄ってみると全く別の思いもよらないものを発見したりする。そして、ふとしたところからまた別の視点から、農耕牛のことを知るためのヒントがあらわれる。
ダイダラボッチが国を作るみたいに、農耕牛の輪郭を捏ねている。
「遠藤周作の「沈黙」という映画の美術で九州に行ったんだけど、僕は今やってることのほかに、もう一つ何かやってないと気が済まないんですね。だから、九州の長崎だったんで、印刷術が日本に入ってきた歴史を調べようと思って、島原に行ったんですよ。そこには原城という天草四郎時貞が討ち死にした城跡があって、雨が降ってたんですが、行く途中の道にホルスタインがズデーンといるんですよ、こっちをジーッと見てね。そのとき、これは天草四郎の生まれ変わりじゃないかな、と思ったんですよ(笑)。それから牛なんです。」
(引用:粟津潔1985年『粟津潔・8夜快談集―青春のこと。都市のこと。デザインのこと。』文化出版局P102)
他、参考文献
粟津潔 1991年『デザインの発見』三一書房
伊勢田哲治 2018年『マンガで学ぶ動物倫理: わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか』化学同人
https://gyazo.com/568a9cbdd213bf5675aea40e327f9e44
太陽の塔
https://gyazo.com/9f3d965f206690ecb78bad7b29f63477
『粟津潔・8夜快談集―青春のこと。都市のこと。デザインのこと。』書影
野咲タラ