[エッセイ]牛がいた頃(大阪府四條畷市立歴史民俗資料館編 古代馬と農耕牛)
この記事の表記ルール:
●●● 内、筆者コメント。他、野島館長への取材内容。
2023年9月24日(日)
●●●なぜ馬か?農耕牛の調査のはずである。しかし、牛を調べているとどうしたって同じ使役動物である馬も視界にちらつくのであって、家にある岩波写真文庫をふと見てみると、赤瀬川原平セレクション 復刻版の「馬」がある。赤瀬川セレクション復刻版2007年刊行、オリジナル版1951年刊行。調べたら復刻版はもとより、オリジナルシリーズでも「牛」の巻はない。西日本は牛、東日本は馬とよく言われるのは、メインとなる使役動物が西と東で異なることを表した言葉だ。東日本では長らく「牛」は使役動物として馴染みがないため、現代の出版文化の中心、東京から刊行されたこのシリーズには登場しないのではないかと思われる。そういえば、平安時代の文学の中心、京都で清少納言が書いた『枕草子』には牛車や牛飼いを通して「牛」が登場していた。出版地の文化が書籍の内容に反映しやすいのは、いつの時代も変わらないようだ。 西日本は公家文化で、貴族が牛車に乗ったり、また牛の餌になる放牧地も多く、糞も牛は胃の微生物が消化されて死んでしまった冷肥で寒い東日本では使えないれど、暖かい西日本では田畑の肥料にしやすかった。一方で、武士文化である東日本は馬が役に立った。大量の牧草地が必要な牛の飼育は、富士山の火山灰が積もる土地には不向きで、アルプスの高い山や静岡の大きな川が隔たることも、牛より馬が好まれる理由になる。馬の糞は腸の微生物が生きた状態で残ってるから発酵熱で田畑を暖めて寒い地域でも堆肥になる。
だんだんと日本の西と東ではコンセントの電源周波数が異なる話を思い出す。西日本は60ヘルツ、東日本は50ヘルツである。大阪を中心にドイツ製の発電所が、東京を中心にアメリカ製の発電所が、それぞれ導入されたとにはじまる。境界線は静岡の富士川と新潟の糸魚川。明治時代(1868年~1912年)に導入される。日本は明治時代にあらゆるものが変化した。明治24年(1891年)には日本初の水力発電所・蹴上発電所が京都市左京区で運転を開始した。商業電力が出来たものの使う産業がなかったので、持て余した電力で路面電車を走らせることになった。都が東京に移り、凋落の激しくなった京都の抵抗ということらしい。昔、今出川通りに市電が走っていたという話は聞いたことがあるけれど、そんな理由があったとは。 日本の西と東で異なるもののそれら全部の理由を知りたくなってくる。
しかしまずは、馬のことだ。●●●
2023年7月2日(日)
●●●そういうわけで、四條畷市立歴史民俗資料館へ出かけた。出かけたのは少し前のことである。諸般の事情で取材後、記事作成に至るまでに時間を要した分、再度この時聞いた話を少し距離を置き、またそのあと知り得たことも頭に置きながらまとめていく。 この資料館のことは、農耕牛の調査をすることになった話を友人にしていたところ、そういえば牛ではないけれど古代馬の展示を見た、と教えてもらったことにはじまる。古代馬とは聞き慣れないもので、そんな興味深いものを専門とする資料館が大阪という近い場所にあるのを知ると、行かない選択肢はない。
最寄駅を忍ケ丘駅として線路沿いを歩いて資料館へ向かうまでの住宅街には、川や水路が多い。あらかじめ、川が多い地形のため古代馬の放牧に向いていたという話を、この資料館を教えてくれた友人が言っていたことを思い出す。住宅地に建つ家は一階建てが多いような印象だった。
資料館に到着すると、来館者を知らせるベルに反応して男性が事務所から出て来られたので、私はこの資料館のメインの展示物であろう古代馬と、調査中の農耕牛の話を聞きたいと要望を伝えたところ、快諾頂く。その人は、その日たまたま所用で公休を返上して在館していた野島館長さんだった。しかも野島館長さんは偶然にも農耕牛の記憶の持ち主だった。
まずは古代馬のことが展示されたコーナーで、たっぷりと昔の馬についての話を伺う。●●●
第1部:古代馬
四條畷にいた古代馬
古代馬とは、5世紀~6世紀の頃にいた馬のことである。それが四條畷にはいたのだ。展示室に馬の写真パネルがある。在来馬の原寸大の写真だ。
現在、馬といえば競馬や映画で活躍するサラブレッドを主とした外来馬が主流となるが、それらは日本の在来馬よりも体が大きい。写真の馬は木曽馬で、だいぶと小さいことがわかる。在来馬は現在全部で8箇所に残り、北海道の道産子や長野と岐阜の間の木曽馬、愛媛県の野間馬、宮崎の馬、与那国馬などがある。それらは全て元々モンゴルにいる蒙古馬で、日本の在来馬の起源となった。モンゴルでは毎年7月11日のナーダム祭で子供達が競馬をする。それは30キロ40キロを走る。長距離を走る蒙古馬は、足が短くて、体が非常に強い。一方で、今の日本の競馬のサラブレッドの場合、1レースでは2000メートル程しか走らない。サラブレッドは足が非常に長くて、頭は同じ大きさあるが、40センチほど高い位置にある。サラブレッドは明治時代に入ってきた。牛が近代化の際に外来の大型牛との交配が試みられたのと同様に、馬も外来馬との交配によって在来馬は混血になる道をたどる。木曽馬は現在120頭くらい。 テレビなどの時代劇に出てくる馬はサラブレッドで、それは本来ありえないことだけれど、在来馬を使って撮影をすると絶滅の原因になってしまうので、代わりにサラブレッドで撮影をすることは仕方がないとのこと。
●●●全ての馬を小さな在来馬に置き換えて時代劇を見てみるのも面白そうだし、牛も馬も明治以前にいた種は小柄だったというのは、日本人が比較的小柄だったことにも関係するのだろうか。●●●
古代馬の飼育方法
四條畷は地理的に奈良が近く、当時勢力があった大和朝廷に馬を納めていた。天皇のために馬を生産し供給する、国家的な事業である。考古学的に馬を研究していると、およそ2歳から調教し、人間が乗り手綱を持って操作する。5歳で奈良県の桜井市にあったと言われる大和王権に納められた。馬は戦争、伝達、運搬のために活躍した。 以前は四條畷だけが一番古い馬の生産地とされていたけれど、最近では長野県の飯田市や群馬県の榛名山の方でも5世紀初めの馬の骨が出てきている。今のところ、この三箇所が日本で一番古い馬の産地だったとされる。そして全てが朝鮮半島から船で運んで来た馬だった。
四條畷では、渡来人1世が来てから200年間程の間、馬を飼育をしていた。古墳時代の5世紀の初めから6世紀の終わりまでにあたる。
ここ四條畷は馬の飼育場所としては、地形が重要視された。東側は314mの飯盛山、西側が河内の湖。山へも馬は上がって逃げない。湖へも逃げない。一方、南北に4本の川がある。ここで馬を放し飼いにしても、馬は川を渡ることはないので、管理がしやすい。それから坂もある。ここは海抜1mだが、たった2㎞しか離れてない場所が海抜45mもある。この坂が馬の蹄を強くした。川筋に生える草は馬の餌になるなど条件が良い。 古代馬の骨と土器
土器や馬骨などの出土品が並ぶ展示ケースの壁の奥には、カラーで可愛いイラストがある。当時の人々や馬の生活がわかりやすく描かれている。
四條畷で出土した土器は、在地の人らと朝鮮半島からやってきた渡来人が一緒に住んでいたことを証明する。厚みが薄く底が平らな土器は渡来人が韓国の百済から運んできたものや、故郷の百済の土器を真似て四條畷の粘土で作ったものだ。韓国の栄山江という川のほとりで出土する土器と瓜二つと言われている。そして、その渡来人らが馬を飼育する技術を持っていたとされるのは、馬の骨と一緒に渡来人の人たちの土器が出てきたからだ。
日本で見つかった一番古い馬の骨は5世紀の初めのもので、一緒に出てくる土器によって、馬の生きた年代がわかる。歯の減り方から、馬の年齢を推測する。展示されている馬骨は、馬の年齢で5歳。馬の寿命は当時14、5歳。現在は乗馬クラブに20歳の馬もいる。ちなみに馬の年齢を人間の年齢に換算するには4倍すればよい。
馬の骨は歯が出てきたり、頭だけ出てきたり、一部だけが出土することはあるけれど、四條畷で発見されたように、全部が出てくることは珍しく貴重だ。だけど、展示されている骨は保存処理まで2年ほど放置している間にだいぶ傷んでしまった。発見時の記録写真から、上下に牙のような歯があり、オスだとわかる。もう一体の馬骨には牙がないのでメスだとされる。
馬と塩
馬の塩作り用のカップの底は丸い。在地の人は底が丸い土器を作る。馬は草食動物だが、飼育していた馬には塩を与えていた。馬への塩の与え方は、奈良時代の平城京の古文書に書かれている。いい馬には二尺(一合升の5分の1)の塩、つまりコップ1杯分、それを与えてあげなければいい馬ができないと言われていた。並みの馬は一尺を与える。ヌメという出来の悪い馬には、塩を与えない。塩を与えたからと言って、ヌメがいい馬になるということではない。
また、平安時代になってくると、塩を与えた量の記述自体がない。おそらくその段階では塩は手に入りやすいものになっているので、奈良時代はいかに塩が貴重だったかということもそこから推測出来る。塩の増産方法が、塩田によるものなのか焼塩によるものなのか、詳細はわからない。和歌山の紀淡海峡や、岡山県の備前や瀬戸など周辺で、塩作りが盛んになった。
出土品あれこれと当時の生活
機能性を重視したデザインのお釜一式セットは見事なもので、これも渡来人によるものだ。竪穴式住居の屋外で使用する。一方、在地の人たちは屋外で煮炊きをせず、家の中にかまどがある。生活スタイルが違う人たちが一緒に暮らしていたとなると、平和そうである。
底板がひび割れて海で使えなくなった木造船は、井戸の井筒にリサイクルされた。胴を縦に切り、二つ合わせるとアーモンド型の楕円形が出来てちょうどいい。遺跡に出土した20数基の井戸の内、6基がリメイクされた井戸だった。
東の山の高台には、渡来人の人たちのお墓が点在する。
●●●船から井戸へ、全く違うものにリサイクルする発想があるのは興味深い。それに、それだけモノが大事だった時代だったろうとも想像する。
だけど昔のことを想像するのは、本当はとても難しい。
埴輪について気になることがあった。動物の形をした形象埴輪のうち、馬の形象埴輪はたくさん出土するにもかかわらず、牛の埴輪は少ない。その理由を考えてみたところ、埴輪は高貴な人のお墓、古墳に埋葬されるものだから、庶民派の動物である牛は埴輪にはふさわしくないからなのかと思ったけれど、そういうことではなかった。●●●
古代の牛
イラストには96頭の馬が描かれている中に、牛は1頭だけ描かれている。田んぼの中に牛の足跡が残っていたからだった。牛は6世紀に日本列島に入って来たと考えられている。5世紀の後半に牛が出現したという諸説もあるけれど、如何せん馬よりも遅い。牛の骨の出土状況は、早いところで和歌山県の方で5世紀後半に遡って馬と一緒に牛の骨が出てきた。大阪周辺は6世紀以降になる。牛はどこからくるのかわかっていない。その、日本における牛の出現の遅れが、埴輪の数に反映されていた。牛の埴輪は大阪府守口市に1つ、大阪府高槻市に数個、奈良県田原本市にも。だけどそれだけしか牛の埴輪はない。形象埴輪が登場するのは5世紀で、日本に牛がやってくるのは6世紀だとすると、形象埴輪ブームとの牛の登場時期がずれていたのが、牛の埴輪が少ないことの原因とされる。それに6世紀の途中で近畿地方では埴輪を作らなれなくなってしまった。近畿地方で埴輪を作らなくなった後も、関東では埴輪は作り続けられ、6世紀の後半に鮮やかな動物埴輪が作られる。 ●●●『人と動物の日本史図鑑2』(小宮輝之,少年写真新聞社,2021)では、多彩な動物埴輪を紹介する。千葉県成田市の南羽鳥正福寺遺跡1号墳から出土した、ボラをモチーフにした魚形埴輪やムササビ形埴輪が載っている。埴輪になったムササビは可愛い。
また馬や牛のルーツも掲載されている。モウコノウマという馬がいることが書かれていて、蒙古馬に名前がとてもよく似ている。だけどこれは蒙古馬とは違って、在来馬のルーツではない。
オーロックスとコブウシは別の種で、蒙古牛は朝鮮牛、赤牛、黒牛と流れ、コブウシは中国黄牛、台湾黄牛と流れるけれど、日本には伝わっていない。牛は馬に比べて重たい荷物を運べるので、古墳や城造りに石や木材を運んでいた。牛は湿り気の多い土地で進化した動物で、この頃から水田耕作もしていたらしい。牛を田ジシと呼ぶ。シシは食肉用を意味し、675年に天武天皇が食肉禁止令を発するまで牛は食べられていた。同時に搾乳技術も伝わっていて、朝廷か管理する乳牛戸で牛乳を作りもされていて、乳、肉、役の兼用の家畜だったことが伝わっている。昔から人間と牛の関係はとても強かったことが伺える。
そういうことで、昔と今では価値観は異なる。牛だって平安時代に牛車が貴族の乗り物だったこともあるし、庶民に身近な動物だとしても家畜動物はずっと高価なものだったことに変わりはない。
時代による価値観の違いでいうと、展示されてる下駄についても言えることで、「下駄は位の高い人だけが履く履物だった」と野島館長さんの話である。
モノは物理的な形と当時の風俗とその背景にある事情と現在の価値観との違いとを繋いでそれらが歴史となって、あらゆる物事を伝える媒介となるようだ。●●●
四條畷での古代馬飼育の終焉?
四條畷では平安時代以降の馬の骨は一頭も出てこなくなる。だけど馬骨が出てこないからといって、馬がいなかったとも言えないのは、よっぽど諸条件が良くないと馬骨が残らないからだ。だけど、現在では四條畷の場所での馬の飼育は、牧畜システムが確認される5世紀6世紀以降は終わってしまったと考えられている。東西2キロ南北3キロの中では馬が100頭程しか飼育できず、必要な馬の数が十分に補えないことが理由に挙げられる。平城京でパレードをする時は何千頭もの馬が必要になり、それを補うためには山の向こうの平群(ヘグリ)や飯田や榛名山の麓など、もっと広い馬の飼育地へ移っていった。生駒山は生きる駒なので馬に因む。 また、古墳時代の集落全体での馬の飼育から、奈良時代や平安時代には各家々での馬の飼育となり、登録制へと変化していく。どの家に馬が何頭いるかを管理し、必要な時にはどこの家から何頭の馬を提供するといった形で、その時に必要な馬を集めた。
●●●馬の登録制管理の話は、のちに但馬で聞いた牛籍簿の話に似ているように思う。●●● 展示物ベスト3
●●●四條畷市立歴史民俗資料館には所狭しと展示物が並ぶ。野島館長さんのお話を聞いていると、その展示物のひとつひとつにはそれぞれに歴史の物語があり、考古学的な魅力があるけれど、一方で、それだけにおさまらないものもこの資料館には所蔵されている。●●●
①古代馬の結石
綺麗な丸い灰色の石があり、祭りの儀式にでも使ったのだろうと展示していたところ、これは古代馬の結石だということがわかった。モンゴルの蒙古由来の馬は小さい馬のため、小さい結石だ。日本では古代馬の結石はここに1点だけ出土している。
②子馬の埴輪
馬の埴輪はたくさん出土しているけれど、子馬の埴輪はとても珍しい。そして可愛い。この子馬の埴輪は大人気で、いろんな場所へ出張している。今年の3月までは九州の展示に参加しており、そのあと韓国釜山の金海博物館に行っていたので、私が四條畷を訪れた時も不在だった。
●●●私は古代馬の結石と子馬の埴輪をかつて東京で観ていた。2020年のコロナ禍に銀座エルメスギャラリーで行われた『ベゾアール(結石)』シャルロット・デュマ展に展示されていたからだ。野島館長さんのお話の中にその展覧会が紹介されて思い出し、自分のスマホに収められた写真のアーカイブをたどると、その時展示で並べられていた四つの結石が現れる。この古代馬の結石が一番小さく、他の3つの結石はサラブレッドなどの大きな馬の結石で、体に合わせて石も大きい。けれど大きさは異なれど、美しい灰色の球体をしていることには変わりなく、それが自然に出来上がった美しさで、また馬の腹に痛みを伴って存在した石であり、もうすでにそれらの馬はいなくなった後、ひとところに集められて並べられることで、美しくも不思議な空間が立ち現れていた。
子馬の埴輪もその時に展示されていたのは覚えている。だけどこちらは写真をわざと撮らなかったことも記憶に残っていた。理由は子馬の埴輪が可愛かったからだ。私が可愛さ以上のものを撮ることが出来ない気がして、その時写真を撮るのを諦めた。
古代馬の結石も子馬の埴輪も、考古学的な価値とともにその形が持つ全く別のベクトルからの魅力が物質の中に共存していて、そのバランスまでもが展示されていた。●●●
③木棺の板
稲の収穫が終わった頃、地下から大きな板が2枚出てきた。2枚セットで出てきた板は小作人の80歳のおばあさんが1枚を持ち、もう1枚いい方を、地主さんに収めた。頃合いの良い大きさの立派な板だったので、五寸釘を打ち、縁側の濡縁としてのどかに茶を飲んでいた。それがのちに、2000年前の樹齢1000年の縄文時代に植えられた木から出来た弥生時代中期の木棺の板だったことが判明した。板の素材は槙だ。日本書紀には板の素材の記述があり、宮殿の柱には檜、船には杉、棺には槙を使うとされていて、その通りだったわけである。
木製品は水があると残りやすく、そのためこの木棺の板は保存され、発見された経緯となる。
四條畷のあたりは湿地帯で、家を建て替える時には、田んぼの上に土を1mほど盛ってその上に建てる。令和の現在でも湿地帯で、川の氾濫による洪水が度々起こり、数年前にも洪水があった。四條畷の隣の門真市は深田・湿田である。稲作は田植えが終わると水を入れるけれど、8月頃には田の水を全て抜き、干さなければならない。田を干すことによって、稲が根を張り、成長する。だけど湿田はいつまでも水が切れることがなく、稲作には向いていない。稲作ができないために、レンコンの名産地になっている。また守口市には守口大根という長さが2メートルの大根が採れる。蛇みたいな渦巻き状になって売られている。柔らかい土壌は、長い大根を作るのに適す。 ●●●この木棺の板のエピソードには、四條畷の土地の特質が大いに生かされている点が興味深い。
出土品も農作物も、土地の性質によって特徴付けられている。
しかし、骨は水があると嫌うけれど、なぜかここではよく残るそうだ。●●●
古代の夏の氷(閑話休題)
奈良時代になると、山の中に室池というところがあり、そこの田んぼに水をまいて、冬の寒い時に氷を作って、その上から二枚氷、三枚氷として、それを夏に平城京におられる天皇のために馬に乗せて、朝方から平城京に運んだ。
馬の体に直接氷密着させてしまうと、馬も腹を壊すので、体に氷が当たらない様に空間を空ける乗せ方を伝授している人は、現在日本に一人しかいない。
氷室は各地にあり、都祁(ツゲ)の氷室と讃良(ササラ)の氷室と西賀茂の氷室が有名である。氷を作る場所が地名や神社の名前になる。西加茂の上の氷室神社は、山奥に3m程の穴が空いた氷室がある。奈良の国立博物館の前にも平安時代の古い時代からあった氷室神社がある。そこへは氷を生業にしている人らがお参りに来る。 ●●●資料館を訪れた日は夏の盛りで、駅からの徒歩の道のりは大変暑かった。地図アプリを見ながら、街にアイスクリーム屋があることを知り、帰りに寄ろうかと考えていたので、昔から夏に氷があったという話は大いに共感する。●●●
●●●大阪枚方市出身の野島館長さんは兼業農家のため、中学生の頃まで家には農耕牛がいたそうだ。近所には1軒だけ馬を使っていたところがある。周囲の家でも牛ばかりを百姓で使っていたので、馬は珍しいと思っていたそうだ。
野島館長さんは農家のことを百姓さんといい、農業をすることを百姓をすると言う。●●●
枚方での農耕牛の飼い方:2軒の家で1頭の牛を飼う
二軒の家で1頭の牛を飼っていた。年間を通して交互に牛は家を行き来する。隔年で牛を交互に飼うのではない。田植えの時期になるとお互いに牛を使いたい時期を言い合って、話し合いをしてスケジュールを調整する。
牛を使わない時期もあるけれど、昔は水田も畑もして、稲作の後には麦も作るため、牛が家の中に入れっぱなしになることは少なかった。
牛は家の中の玄関を入った右側のところにある牛小屋に住んでいた。2軒1組で飼っていたので、もう一つの家にも同じく牛小屋がある。こっちにいる時はあっちの牛小屋は空になり、あっちに牛がいる時は、こっちの牛小屋は空になる。牛が2軒の牛小屋を行き来する塩梅は、父親が兼業農家で月曜日から土曜日までは本業の仕事があると、日曜日だけ使わせてもらい、相手の家は平日常に働いているわけではないので、平日に田んぼを耕す時に使う、という具合になる。兼業農家は毎日百姓をするわけではないので、週の半分だけ牛を借りたら良いことになる。
他に1軒で1頭の牛を飼う農家もある。耕す面積が広くて1町や2町となると、毎日牛を使わないといけない。反対に面積が狭く3反や4反しか田んぼを作ってなかったら、毎日曜日に家族総出で田んぼをしたら間に合った。
子供の生活と農耕牛
野島館長さんは子供の頃は畑で育ったようなものだそうで、畑の近くに竹やぶがあり、紐で竹やぶの竹に繋がれて、そこの範囲をぐるぐるしながら遊んでいた。
牛は会いに行く時は前から。後ろから近づくと蹴られてしまう。
牛は7歳上の兄と世話をしていた。朝、飼い葉桶の中に、母親が作ったお米の研ぎ汁と野菜のクズ、塩をひとつまみ、そして飼葉を入れて、兄と一緒に牛小屋へ持って行く。牛は胃や腸がたくさんあるので、反芻する。馬はそれがないので、馬は食べた草がそのまま糞になって出てくる。
昔は家族でなんでも手伝いをする。今は田植えから稲刈りまで全部おじいちゃん一人が機械に乗ってやっている場合もあるけれど、昔は全部家族で総出で田植えをしていた。兄は昭和20年生まれ、野島館長さんは昭和27年生まれ。農繁期に友達と遊びに行くことはまずありえないことで、兄の時には収穫の時や田植えの時期には小学校が休みにすらなっていた。8~9割が百姓の子供なので、学校として子供たちに家の手伝いをすることを望んでいた。野島館長さんが小学校に入った頃にはその休みはもうなかった。たった7年しか違わないけれど。
農機具の変化
昭和30年代頃からトラクターや耕運機が出てくるとされるけれど、野島館長さんは昭和27年生まれで、昭和30年代は小学生だったけれど、まだ牛を使っていた。
牛は中学校1年生の時までいた。牛の方が先にいなくなり、そのあと昭和40年代の中学校の時に初めて稲刈り機が登場する。それまでは稲を刈る時、中腰でノコギリ鎌で7束を刈っていた。稲刈機は立った姿勢で稲を刈れるので便利で楽だったけれど、ノコギリ歯の二枚羽で、ガッと切るので傷みやすくて力が結構いるという欠点もあり、結局3年くらいしか使ってないということは、あまりいい評判ではなかったようで、その後にまた改良されていくことになる。
トラクターや耕運機はシェアしてたか
耕運機は各家庭で使っていて、共有していなかった。
牛は田んぼを耕すだけではなく、ものを運搬するのにも使う。リアカーで肥料となる牛糞を積んでいる時は、牛に運んでもらったりもした。牛がいなくなったら、リヤカーと呼ばれるものの本体だけで運ぶようになる。
大阪枚方市の博労
博労は家の近くにいて、野島館長さんの家でも定期的に博労が新しい牛を勧めにきていた。だけど期間などは子供の頃だったので、覚えておらず、祖父が対応をしていた。歳をとってきたら牛は動きが悪くなるし、あまり若い牛だと暴れるばかりだから、いい牛を博労さんと交渉する。子供なりに博労さんが来ているのはわかっていた。博労さんが来たらしばらくして、新しい牛が来ていた。交渉する時は牛は来ていなかったので、話だけでこういう牛が欲しいといった話をしていたのではないか。品評会のような感じでもなかった。機械と一緒で、何年か経ったら、新製品を売りに来るみたいな感じ。
牛は一緒に生活していて家族の一員なので、牛を交代する時は悲しかった。新しい牛が来るとわかっていても、ずっと一緒に暮らしていた牛に愛着がある。目を見てると、犬みたいにペットではないけれど、本当に家族の一員だと思う。
お正月に牛用のお餅を作ったか
牛用のお餅は作らないけれど、畑に対するお礼に、餅を畑に持って行ったりした。鎌や鍬にも餅を備える。
田原では今でも月と太陽と一斗枡と年号の砂絵を描き、豊穣を願う伝統行事が残る。年末、正月の準備が終わった夕方に、庭の赤土に線を引く。一斗枡には「万石」と書かれる。農業をする人が減っていくと、なくなる可能性のある伝統行事とされる。
大阪の家の間取り
百姓さんはどの家でも牛小屋を持っていて、それは家の中の場合も外の場合もある。牛小屋はウマヤとは言わず、ウシゴヤと呼んでいた。
馬は基本的には座って寝ず、本来は立って寝て、危険を察したらパッと逃げる。だけど牛はドバッと寝る。牛の下に藁を敷いているけれど、その下に尿が流れていく構造で、藁の下に板が敷かれ、その下にさらに汲むところがある。牛を外に出して、板を上げなくてもいいような構造になっている。藁が汚れてきたら、それをまた田んぼに持って行き、肥料にする。藁を変えたりする時は牛を外に出すけれど、その時は家の前の樫の木に縄でくくりつけて、牛が逃げないようにしている。
四條畷のあたりの昔の家は屋根が低く、二階は中二階の構造になっていて、牛の餌である藁をそこに納めるための場所だった。牛がいなくなって、藁も寸法を短くして畑に撒くようになったら、二階は必要としなくなるから、子供たちが学校へ行く年齢になると子供部屋に改造した。棟のところは立てるけれど、日差しが斜めになり背が低くなるので、しゃがんでそこに机を置いて勉強する。
また、この辺りの家は門を入ってすぐに広い庭があり、そこは秋の収穫時に籾を干す場所になる。稲刈りの後に田んぼに稲の束を干す作業とは別で、田んぼは湿気があるので最後までは干さず、脱穀したあと、藁は積み、籾だけを持って帰って、天日に干して乾燥させる。
藁と籾は、各家庭で蛇腹になっている脱穀機で脱穀する。それを筵の上に拾う。筵を作る機械もあり、作る人もいるけれど、筵は買う人も多い。筵は機織みたいに幅を決めた縦糸に横糸を編んで作る。
乾燥機が出来て外で干す作業がいらなくなると、作業場所は盆栽を植えたり、石を敷いたりして庭を作った。
四條畷付近の農業
田植えは6月頃。今は権現川の水が入るようになり、田植えが早くなった。田原地域は天野川の水を引いている。でもあまり早く田植えをしすぎると、水が冷たくて成長に影響する。今は稲刈りは10月頃が多いけれど、昔は11月頃にしていた。そのあと麦を植えたり、他の野菜を植える。 綿花は八尾や東大阪が綿花栽培が多い。痩せている土地で、段々畑や丘陵地だった。田んぼを作りづらいところで栽培される河内木綿は八尾市の方で多かった。平地では水田を作れるけれど、山の方は水を供給できないので、田植えも難しい。 百姓の冬の仕事には縄ないがあった。
四條畷市立歴史民俗資料館と牛
展示室には牛の絵を描いたパネルがあり、この牛はキャスターが付いているので、可動式である。牛には昔使用していた鞍が乗せられている。鞍は牛が引っ張る犂(カラスキ)を設置するのに使う道具だ。地元の小学生が見学に来た時には、裏の駐車場で牛を引く実演をすることもある。
四條畷で一番最後まで牛を飼っていた家には、昭和50年代までいた。農作業は機械化もしていたけれど、愛着があり、牛を手放さずにそのまま持っていたという。その家にいた牛の写真が資料館には展示している。
お米の価格表も展示されている。何年にいくらだったか、米の銘柄も色々と書かれている。俵印は大阪第一食糧という企業の名前で、JAではない。価格は平成まで書かれている。
米穀類購入通帳というものも展示されている。昔は米を買うのにこれが必須だった。市役所が発行しており、昔、米が政府の配給米だったことを示す。使用方法は、米屋にこの札を持って行き、米を買う。また、なりたいと思っても、勝手に米屋になれるものではなかった。今ではスーパーでお米を買えるけれど、これがないと米屋で米を買えなかった。
JAはお米の買取はするけれど、販売はしない。
野島館長さんの家は百姓なので、米は自分の家で作ったものを食べるため、この通帳を持つことはなかったけれど、これ以外の買い方でお米を買う、例えば知り合いの百姓の人に米を分けてもらうのは、闇米になる。本来はこれ以外の方法では売ってはいけなかった。
●●●米穀類購入通帳についてもう少し調べてみると、戦前1942(昭和17)年の食糧管理制度の元で、農林水産省により発行され、市町村が職務代行で発給が行われたものだそうだ。日本でお米の配給を受けるために必要なものだった。名前や住所などが書いてあるので、身分証明書にもなり、映画や小説にもそういった役割で登場することもある。
1969年(昭和44年)に自主流通米制度が発足して、米の売買の権利が緩和されて、スーパーで米が売れるようになる。最終的に1981(昭和56)年に廃止になった。
生まれる以前になくなった制度ではあるものの、米穀類購入通帳とは全く知らないもので、こんなに長く戦後が終わってからも米が配給制であったことに驚く。闇米は戦前の言葉だと思っていた。●●●
2023年10月1日(日)
●●●以上が四條畷市立歴史民俗資料館でお伺いした話。その古代馬から農耕牛まで多岐にわたる話題から、物と歴史のつながりというもう一つの視点がみえてくる。歴史は出来事だけれど、展示室の可愛いイラストパネルも、野島館長さんの詳細な話も、目の前に当時を人や動物たちと過ごした物があることで、より説得力と想像力の広がりを持つ。●●●
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現在も川のある四條畷の街並み
https://gyazo.com/7fe433a30523e8a47b1634c2dbcfd9ad
四條畷市立歴史民俗資料館の外観
https://gyazo.com/4c2862a23123b9487649344272cc8f47
展示室に並ぶ土器と古代馬の結石
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四條畷の田んぼから出てきた弥生時代の木棺
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展示室にいた木製パネルの牛
https://gyazo.com/3e8085cb39ccccab34b8f9834ffe4f26
米価暦
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米穀類購入通帳
野咲タラ