[エッセイ]牛がいた頃(兵庫県姫路/香呂 日本玩具博物館編)
2023年7月31日(日)農耕牛を調べてたら、なんでも牛が気になる。京都清滝の催しに参加すると、そこで牛の糞で作られた鳥の置物があった。インドの手仕事の民芸品は、鳥の表面は紙なのだけど、中の粘土が牛の糞ということだ。造形は黄色い体に黒で羽根の毛並みが施され、全体的に各所赤色がポイントに入っている。目はクリクリと大きくて、小さな板の尾っぽがのびる。シンプルな要素。 調査で農耕牛の糞は肥料として重要だったと知ると、その牛の糞でさえ身近になる。その牛の糞が民芸品になって鳥になっているとは、俄然興味が湧いてくる話である。これを紹介していた人は「ひとりみんぱく」という企画を行う松岡宏大氏だった。説明によると作品はレジェンドとされる女性が作っているものらしく、松岡氏の選りすぐりの品でもあるらしい。インドでは今でも様々な動物埴輪を作っているそうだ。
せっかくなのでその一つを購入する。
この牛の糞の民芸品について、なにかわかったりするものだろうかと以前より気になっていた兵庫県姫路にある日本玩具博物館に話を聞きに行ってみることにした。
2023年08月20日(日)兵庫県の姫路からほど近い香呂駅の日本玩具博物館へ向かう。 駅から真夏の日差しの下に田園風景が広がる道を歩いていくと、民家を改造した建物である日本玩具博物館にたどり着く。日本玩具博物館は、国内外の郷土玩具を展示する私設の博物館だ。館長の井上重義氏は1963年斎藤良輔著作の『日本の郷土玩具』に出会ったことをきっかけに、子どもに関わる文化遺産が失われていく状況を知り、郷土玩具の収集を始める。手元に5千点ほどが集まった1974年に博物館を開設。以来、博物館活動に邁進し、半世紀に及ぶ歳月をかけて、世界160ヶ国、9万点という膨大な所蔵数を誇る日本有数の玩具博物館に育てあげた。展示は5つのテーマに分けられ、国内外の玩具が本当に所狭しと並べられている。昭和初期に玩具収集のブームがあり、その時集められたものが寄贈されたりもして、コレクションは増えていき、展示できない資料も多いことから、年間4、5回の企画・特別展を開催し、玩具文化に様々な方向から光を当てている。
博物館は1日中、たくさんの人、子どもも大人もその真ん中の若者も、多くの人で賑わっていた。その日は企画展「メキシコと中南米の民芸玩具」の関連でワークショップも行われていて、余計に来場者が多かった。広い館内に所狭しと並ぶ玩具の展示を見たあと、忙しい日に訪問してしまったにもかかわらず、学芸員の尾崎織女さんにお話を伺う。訪問のきっかけである牛の糞で出来た民芸品のこと、また、尾崎さんも農耕牛の記憶の持ち主で、村の人たちが牛を大事にされていた事が判り、そのお話もお伺いする事にした。
■■牛の糞で出来た民藝品の鳥について■■
玩具や民藝品のいろいろな素材
ーー牛の糞ですが臭くないです。私は農耕牛を調べていて、農耕牛は糞も大事な肥料として使われていたことを知り、牛の糞で出来た民芸品があることに驚きました。
O:牛の糞が造形物の素材になるとは!?そこには象徴的な意味があるのか、それとも、粘土として有用だからか、その両方なのか・・・。(牛糞から作られた小鳥の民芸品の画像を見て)すごいですね!そして、とてもかわいらしい!
造形物のユニークな素材といえば・・・、中国の雲南省に暮らすナシ族は、お祭りのときに、麦粉や蕎麦粉の生地から自然神や精霊などを作って祭壇に並べ、その儀式が終わると、参加者たちはお下がりとしてそれらを持ち帰り、食べることもできるようで、それは日本において、八朔の節句に供える新粉細工の扱いによく似ています。ペルーのアヤクーチョ県に伝わる箱型祭壇「レタブロ」のなかには、人形がぎっしりと配置されるんですが、その人形の材料として、その昔は、ジャガイモが使われていたと聞きます。豊かな実りの象徴である穀物を造形物に仕立て、お供えをするというような文化は世界各地で見られるようですね。
八朔の節句の新粉細工
O:旧暦8月1日、八朔(2023年は9月15日)が近づくと、香川県の丸亀市や三豊市などでは初節句を迎える男の子の健やかな成長を祈って「だんご馬」が作られます。けっこう大きな馬で、武者人形や団子の鯛や張り子の虎などとともに飾って初節句のお祝いしたあと、集まった人たちに切り分けてふるまい、蒸したりして食されるそうです。米粉に加えてもち粉も入っているので、もちもちとした食感で美味しいものです。今も続けられている風習です。 広島県鞆の浦の八朔には、「八朔の馬出し」といって、子どもの誕生を祝って、白い馬の造形物を台車に乗せて町中をひきまわす行事が伝承されていますし、福岡県芦屋町ではわら馬が作られます。芦屋の八朔のわら馬は、郷土玩具の世界でも有名です。西日本では、端午の節句が盛んなところと、八朔の節句が盛んなところがあり、八朔に雛人形を飾る地域もあります。八朔の節句は、風習が行われている地域では当たり前のことであっても、全国的にはあまり知られてないですね。 ところで、八朔の節句に馬はつきものです。白馬は神様の遣いとして大事にされてきた特別な動物であることからでしょうか。八朔は「田の実の節句」ともいって、稲が実り始める頃にあたるので、馬と農耕との関わりの深さからなのかと思ったりします。
ーーこのお祭りはいつぐらいに始まったのでしょうか。
O:日本各地で祝われる節句の風習がいつごろに始まったか、文献として残されているものもありますが、庶民の暮らしに根付いた郷土文化について正確につきとめるのは難しいです。それぞれの行事によって異なると思いますが、庶民が経済力を持つ江戸時代の後半でしょうか。
ーー先ほど館長さんに干支の本をたくさん出してもらったのですが、牛の郷土玩具といえば、まずは干支モノになるんですか?
O:郷土玩具の世界では、十二支の中の動物の一つとして扱われることが多いですね。
ーーあと、一文牛というのもありました。
O:京都伏見焼の「一文牛」ですね。「一文」というのは、一文銭で買えるくらい小さくて安い、という意味です。伏見の一文牛は、かつては疱瘡(天然痘)除けのまじないになると信じられていたようです。闘牛が盛んなところにも、素朴な牛の玩具がありますよね。
ーー展示には小千谷の玩具もありましたね。
O:新潟県小千谷の「木牛」は、木の枝が角に見立てられていて、牛の存在感をよく表すいい造形ですよね。
岩手の牛の博物館があり、新潟県小千谷の木牛によく似た玩具が岩手県内にも伝承されていることを教えていただきました。また、島根県の隠岐の島を訪ねた折にも、地元の資料館で、「木牛」にそっくりな伝承玩具が作られてきたことを知りました。隠岐も小千谷と同じように闘牛が盛んな土地柄です。子どもたちは、その玩具で、闘牛の角つきを真似て遊んでいたと聞きます。小千谷の木牛は有名ですが、岩手の木の牛の玩具も、隠岐のそれも、郷土玩具の世界ではほとんど知られていないんです。他の地域でも、闘牛が神事として行われていたようなところでは、闘牛を真似て遊ぶ玩具が作られていたんじゃないかと思われます。
兵庫県などは郷土玩具がたくさん残されていますが、それは、例えば当館の井上重義館長のように、玩具をすくいあげて光を当てる人がいたからです。近世の暮らし方を反映したような郷土玩具はもうすっかり、暮らしの中から消え去ったように見えますが、まだまだ知られざるものがどこかに遺されているのではないかなと思います。今は遊びの道具としての役割は終えていたとしても、どこかに伝承のかけらが潜んでいるんじゃないかなと。
尾崎清次『玩具図譜』と疱瘡除け玩具
O:戦前の牛の郷土玩具には、その牛で身体を撫ぜると身体にできた腫れものが治るというものも見られます。伏見の一文牛も、それから、有名な福島県会津若松の「赤べこ」もそうですが、疱瘡除けの俗信と結びついた牛の郷土玩具も各地に伝えられています。牛は人間にとても親切にしてくれる動物というイメージなんですかね。
昭和初期、戦前に尾崎清次さんという方が著された『育児上の縁起に関する玩具図譜(全三巻)』(※以下『玩具図譜』)という書があります。尾崎清次さんは小児科の先生で、もともと画家志望だったそうで、絵がお得意。郷土玩具に興味を持たれたのは、新婚の奥さまと和歌山を訪ねた時に、小さな祠に「瓦猿」という瓦でできたお猿さんが収められているのに出あった感動がきっかけだったそうです。それは安産祈願のための奉納物で、願いが叶った女性がまた奉納するので増えていく、というものです。民間信仰に満ちた愛らしい造形がそっと伝えられてきたことにすごく心を打たれて、小児科医という本業のかたわら、郷土玩具の収集とその背景を探る研究を開始されたんです。尾崎清次さんの『玩具図譜』を丁寧にひも解くと、日本人の自然観や子育て観が見えてきます。
現代だと「知育」とか「木育」というようなキーワードを冠しておもちゃが売られたりしますが、明治の終わり頃は「教育玩具」というのが流行しましたし、大正時代は「文化」、戦時中は「愛国」というのが玩具のキャッチコピーともいえるものだったんですよね。それで、江戸時代、近世はどうかというと、乳幼児死亡率が高かった時代、「病魔除け」「疱瘡除け」がとても重要なワードだったのでしょう。時代をさかのぼってそのようなワードを対照させてみると、それぞれの時代、人々が子どもたちに何を望んだか、どんな幸せを求めたのかがよく感じられます。近世の玩具文化を受け継いでいるのが郷土玩具なんですよね。『玩具図譜』のなかには、様々な民間信仰とともにあった玩具が掲載されているのですが、そこには神社仏閣の授与品が数多く含まれています。
尾崎清次さんが和歌山で出あった安産祈願の「瓦猿」もそうですが、願いを聴いてくださる村のお堂や祠などで仏さまや神さまに心を込めて祈り、そのお堂などにずらりと並ぶ品を一体、借り受けるようにして持ち帰ります。それを家庭のなかでお祀りします。そして願いが叶った時には、借り受けた一体に加えて、もう一体、お礼に購入して、奉納する風習があったことが『玩具図譜』で語られています。 中国にもそのような風習がありました。戦前の中国の東北部各地には、子授けに霊験あらたかな道教寺院があり、そこには張り子の起き上がり小法師がたくさん、もうおびただしいほどの数、並べられていたそうです。その中から「こんなかわいい顔の子どもが生まれたらいいな」というものを選んで、子授けの女神に祈願したあと、その一体を持ち帰ります。願いが叶うと、新たな起き上がり小法師をもう一体買って奉納します。やがて次の女性がその中から一体を選んで・・・っていうような・・・。起き上がり小法師は子宝の象徴なんですよね。よく似ていますね。日本の風習と。
『玩具図譜』のなかに、「瘡 (くさ)除け」の願いが込められた牛の郷土玩具がいろいろあります。「瘡(くさ)」というのは、腫れもの、そのカサブタを表す言葉です。牛が草を食べるように身体中に出来た瘡を食べて、腫れものを直してほしい・・・、そんな願いが込められた玩具たちです。
ある丑年に、牛の郷土玩具を集めた企画展を開催したんですが、そこには「瘡除け」の願いを込めて作られ、奉納されたりもした「瓦牛」(和歌山県の郷土玩具)も展示しました。展示解説会をしていたら、聴いておられた一人の若い女性が胸をおさえて涙ぐまれたんです。「・・・ああ、昔もそんな願いを強くもつ人たちがあったんですね」と。あとで伺うと、彼女はアトピー性皮膚炎を長く患っておられた・・・。「触らせてもらってもいいですか?」とおっしゃるので、そっと手渡すと、戴くように大事に受け取られてしばらく眺めておられましたが、「ちょっと肌に当ててもいいですか」と。うなずいてみせると、彼女は、自身の左腕にそっと瓦牛を当てて、真っ赤な目でこう言われました。「ひんやりしてて、すべすべで、すごく気持ちがいいんですね」と。「瓦牛」に込められていたのは、ただ草を食べる牛にかけた古い民間信仰というばかりではなくて、温度やなめらかな手触り、重さや形や・・・モノ自体がもつ力だったんですよね。痒かったり、腫れて赤くなってるところにこれを当てるとひんやりとしますし、実際に治療の効果もあったんじゃないかと気づかされました。 七夕の二つの語源
ーー牛と馬の関係も気になります。
O:関東地方の七夕飾りには、かつて馬のつくりものが多く見られました。古代中国で始まった七夕は、機織りや縫い物の上達を天の織姫にお願いする星まつりですから、糸や反物など、それらにまつわる品々をお供えするのがもともとの七夕飾りなんですよね。それが日本の宮中、貴族社会に伝わってきます。やがて七夕の願いとして、和歌や書や楽器などいろんな芸事の上達というものがプラスされて、貴族社会から武家社会へ、武家社会から庶民へと 拡がっていきます。どの文化も同じような歴史をたどるのではないかと思うんですが、武家から庶民へと節句文化が深化していくと、地域の暮らしやもともとあった風習に溶け込み、例えば、七夕は、豊作祈願やお盆の祖霊供養と合体していきます。旧暦の7月7日は今年なら8月22日。このころになると実りの秋はもう間近。また七夕の一週間後はお盆ですよね。2023年だと旧暦のお盆は8月28日~30日になり、祖先を供養しなければいけない。その一連の流れの中で七夕を祝いますので、馬に乗ってこの世へ戻ってきて、牛に乗ってあの世へと帰っていく、という精霊(祖霊)のための牛や馬が、一週間ほど早く七夕に登場しても不思議ではありません。
仏壇は明治になって普及したので、精霊をお迎えするしつらえはお仏壇のなかで行うのが一般的ですが、かつては、お仏壇が各家になかったので、お盆がくると精霊棚をつくって、「ご先祖様、帰ってくるのはここですよ」という幡を掲げていました。棚と幡を準備するのは、旧暦7月15日(お盆)の一週間前、旧暦7月7日に為すべきことだったんです。つまり、7月7日は、棚 (たな)と幡(はた)の日で、「たなばた」と呼ばれるようになったという説もあります。
もう一つは、「棚機」説です。古代の日本では、「地機」といって、座った姿勢で、身体全体を使って反物を織っていました。奈良時代、いや、それ以前のことでしょうか。そこへ高級織物を生み出す“棚状の機(はた)”と、それを操ることが出来る棚機女(たなばたつめ)という職能集団が渡来します。棚機女が棚機で織り出す絹織物の美しさと肌触りのよさに貴族たちはたまげたことでしょう。棚機女は自分たちの技能のさらなる向上を願って、天の織姫に願いをかける星まつりを盛んに行っていたのですが、その風習も一緒に渡来していたんですよね。素晴らしい反物を織る棚機女と魔法のマシーンである棚の機を讃え、7月7日の星まつりが「たなばた」と呼ばれるようになったというわけです。
七夕をそのまま読むと「しちせき」「しちゆう」ですが、それを「たなばた」と読む理由について、二つの説はどちらも説得力がありますよね!
各地の七夕の風習と牛馬の関係
O:七夕が「七日盆」と呼ばれるように、お盆行事の始まりの日とみなされてきたために、お盆に登場するはずの牛と馬が七夕にも飾られる地域があるのでしょう。お盆のしつらえとして、胡瓜の馬と茄の牛は全国的に知られていますが、祖霊には、馬に乗ってぱっぱかぱっぱかと早く戻って来てもらい、なるべくこ長く留まって欲しいので、牛に乗ってゆっくりゆっくりと帰ってくださいという思いが託されているとよく言われますよね。
一方、七夕の牽牛星、牛飼いの彦星にちなんで、関西では七夕飾りに「茄子の牛」が飾られる地域も多く見られます。ここ姫路の播磨灘沿岸の町々では、縁側に、一間(約180㎝)ほど離して2本の笹飾りを立て、その間に細竹を渡して、千代紙で作った着物を干すように並べ飾る風習が残されています。縁側には、西瓜や南瓜、瓜などを供え、その傍に茄子に苧殻(おがら=麻の茎)や割りばしの欠片をさして脚や耳や角を作り、トウモロコシのひげを尾に見立てた牛も飾られるんです。かわいらしい牛ですよ!
先ほどもお話ししたように、関東地方では、馬のつくりものを七夕に供える地域が多く見られました。千葉や埼玉などの農村部では、水辺に生育するマコモというイネ科の植物で馬を作り、地域によってはその馬を二頭用意して、縁側がある軒下につるしたり、マコモで作った牛とともに玄関先にしつらえたり、また笹飾りに十文字になるように竹を渡して飾ったり・・・。関東の農村部では、敷地内に祠をもつお家も多く、七夕が終わると、その祠の屋根にマコモ馬をあげ、朽ちるに任せるのだと伺いました。
「千葉県立房総のむら」という千葉県各地の武家や商家、農家など建物や習俗を保存展示する体験型博物館施設では、上総、下総、安房・・・それぞれの地方に伝わるマコモ馬を拝見し、それらを作る講座にも参加させてもらいました。少しずつ作り方や姿が異なりますが、いずれも美しいものでした。
また岐阜県高山市の松之木地区では、七夕がやってくると、村人総出で、大八賀川の両岸に立つ男岩と女岩に綱を渡し、そこに初七夕を迎える男の子のためのわら馬と、女の子とのためのわらの糸車をずらりと下げます。元禄時代以前から伝わる五穀豊穣を祈る行事なんですよ。これが七夕なの?!と驚くような風習が全国各地にあり、興味が尽きませんね。
七夕飾りに登場するものといえば、短冊に笹飾りというのが一般的ですが、民俗行事を訪ねると、全国的にみて、着物、灯籠、船、そして馬、というのが七夕の重要な供えものであったことがわかります。そして、馬を用いた七夕飾りは、関東地方独特のものといえそうです。
ーー七夕も大阪の交野で七夕の話はちょっとありましたが、今聞いた話は全然違いますね。それに交野の織物は東大阪が土地の性質で綿花栽培が盛んだったので、綿の織物でした。
O:少し話がそれますが、全国各地に郷土の糸まり(手まり)が伝承されていますが、それらが作られるようになるのは、江戸時代、木綿の生産が全国に行きわたってからのことです。それまでは「まり」といえば、鹿革から作られる蹴鞠をさしていました。木綿は弾力があるため、それらを丸く固めたまりは、下に向かってつくと跳ね返ってきますので、室内に限りますが、まりつき遊びが誕生しました。郷土のまりのなかには、春の山菜、ゼンマイの綿毛を集めて作るものも見られました。玩具もまた、土地の気候風土はもちろん、生産技術や産業の発達と深く結びついていたことがわかります。
七夕の短冊についても、前身は梶の葉で、いにしえの七夕飾りには梶の葉に文字がしたためられていました。江戸時代の後半になって、紙すきが全国に普及することで、短冊が盛んに飾られるようになるわけです。18世紀はじめの文献を見ると、寺子屋の子どもたちが書の上達を願って、梶の葉に文字を書いています。そして文机の上には、清書用だと思うんですが、和紙の短冊が置かれています。それが一世紀ほどを経て、19世紀はじめの浮世絵などを見ると、笹にはたくさんの和紙製短冊が飾られているんですよね。
■■農耕牛の記憶■■
尾崎さんの農耕牛の思い出
O:小さい頃なので確かな記憶ではないんですけれど・・・。私の祖父母の家は、兵庫県宍粟郡山崎町の田舎のむらにあり、今は宍粟市になっています。山間部に位置して森林がとても豊かなので、林業に従事する家が多かったと思いますが、農作も行っており、家々には牛小屋がありました。昭和30年代から40年代はじめのことです。耕耘機(こううんき)などの導入が進んで、農耕牛や農耕馬を手放していく時代だったのではないかと思います。親しくしていたお隣の家は、最後まで牛を置いていた農家のひとつだったのではないかなぁ・・・。牛は老いていたようで、時々田畑に連れて行き、ちょっと耕したりさせていたように思います。おぼろげな記憶ですが、叔父と一緒に牛小屋に草をもっていって、食べさせたりしたこともありました。薄暗い小屋でもぉ~と鳴く巨大な牛が怖かったこともうっすら覚えています。祖父母の家にも牛がいたようでしたが、母の話では、私の生まれたころにはすでに不在だったそうです。馬も飼っているうちもありました。日々の暮らしにもっともっと動物が身近だったと思うんですよ。 お隣の家で飼っていた牛も、やがて居なくなりました。母に「あの牛どうなったん?」て聞いたこともありますが、はっきりしたことはわかりません・・・。
ーー但馬の牛博物館で、昔は仏教で禁止されていて肉食文化がなかった頃、老衰で死ぬと集落でお墓に埋めると聞きました。 O:なるほど・・・。お隣の牛も、もしかすると埋葬したかもしれません。祖父は明治35(1902)年、母は昭和13(1938)年生まれで、私が昭和37(1962)年生まれです。祖父は一生の間に牛肉も牛乳も口にしませんでしたし、母もまた今でもめったに食べませんね・・・。祖父母が仏教的な思想のなかで生きてきたこともありますし、同じうちの敷地内に暮らして、いつも家族を助けてくれる牛を食べるなんて、牛に申し訳ない、それはあるまじきことと考えていたように思います。
私もまた、牛を食べる習慣のない家で成長したため、学生時代に先輩の論文の手伝いをした際に、お礼に御馳走してもらったのが牛肉のステーキで、初めての体験でした。トンテキは時々、食卓にあがっていたんですが・・・。食べ慣れないこともあって、先輩には悪かったのですが、気分が悪くなって残してしまいました。今では牛肉も食べますけれど、あまり好みませんね・・・。
ーー私もいろんな方に農耕牛の話を聞いていて、飼ってる牛は大好きなんです。家族同然に可愛がって、大事やし、働いてくれるし、大好きなんですけど、手放した後はお肉になるってわかっているけど大体三年くらいで牛を入れ替えしていて。だけど実際に牛肉を食べるかは、私もあまり聞けずにいます。
Nさんによる牛のお墓の情報
尾崎さんとは博物館の事務室にお邪魔して、お話しを聞かせていただいていたところ、休憩室でもあるそこでは、受付のスタッフをされているNさんがお昼休憩をされていた。そのNさんからも農耕牛の話題が提供される。それは私がこの調査でずっと気になっていた牛のお墓についてのものだった。
N:墓地の話なんですけど、うちの実家に牛のお墓があります。すぐそこなんですけど。ほんまにただの石です。父は75歳ですけど、この辺でずっと牛と共に生活をしていた世代です。で、病気で死んだりした牛なのかな、と思うんですよ。その牛の墓が人間の墓のそばに石立ててあって。
O:参り墓やんね、きっと。骨が納めてあるんじゃなくて。
N:それがほんとかどうか信憑性がわかんないですけど、私はそう聞かされて育ったけど、牛の墓やでって言って。
ーー牛の墓は集落の人しか知らないみたいで。覚えている人ももういないから、場所を調べようがないらしいです。
O:そのお墓は集落のものか、Nさんのご実家のY家のものか。
N:個人的に建てたお墓だと思います。かわいそうやから祀ったと思ってたんですけど、父が子供の時の話やから、実際は詳しく知らず。博労さんが、死んだ牛は連れ帰ったとかどうとか。
O:私も祖母が「博労さん、博労さん」というのをよく聞きました。村に博労さんがいたんでしょうね。
Nさんはご実家に電話までして確認頂き、詳しい牛のお墓の経緯を教えていただいた。
N:やっぱり牛のお墓やったみたいです。うちの父のおじいさんが建てたらしく、おじいさんは宮大工をしていたらしいんですけど、釘がようけ落ちとって、牛が食べる藁の中に釘が入っていて、それを飲んでしまった牛が死んでしまったらしく、それでおじいさんが墓を建てて祀ったんですって。
誰も参ってないけど、お墓は今もあります。自分の家の墓の横にちっちゃい墓石です。
ーーそれは一匹の牛のためにたてたお墓なんですか?
N:そうです。基本的には大きくなったら博労さんにちっちゃい牛と交換してもらいます。
その死にそうになった時も、博労さんといろいろしたけど、助からへんかったみたいで。死んでしもて、祀って、で、また新しい牛を買うた、ということみたいです。お墓の近くに牛の牧場があるんですが、そこに聞かれたら、昔は博労さんみたいなこともしてはったんかな、と思ったり。
まだ牛もいます。但馬牛の肉牛を育ててはる。数は少ないですけど。
Nさんの実家の牛のお墓は玩具博物館から近いそうで、Nさんの仕事が終わった後に連れて行ってもらえる事になった。
■■調査方法のアドバイス■■
尾崎さんには調査のアドバイスをたくさん頂く。それらの紹介もしたい。
①座談会方法の調査
O:面白い研究ですね。
ーーいや、皆さんの話が面白くて。
O:意識をしないことでも、追究してたらよかったのに、と後になってから思うことがありますね。時が経って、うっすらとした記憶になって、そしてその実態を知ってた人がいなくなる。
ーー今がタイムリミットだなと思って。
O:例えば地域をきめて、老人会などの会合にお邪魔され、お尋ねしてみるとかはどうですか。皆さん、あーそやった、そやったって、老人会ともなれば、70代、80代、ひょっとしたら90代の人もおられるかもしれないし。今、80歳が昭和18年(1943年)生まれ。90歳が昭和8年(1933年)生まれでしょ。小さい頃の記憶として、戦前戦後のことを覚えてらっしゃる方もおられるかもしれません。
ーー老人会で話を聞かれて調査される時もありますか?
O:例えば、私は七夕の習俗を調査しています。伝承されてきた生活文化が、昭和30年代から40年代にかけて、高度経済成長の完成期に、さぁーと日本中からなくなるんです。近世的な文化は、明治維新、日露戦争後の明治の終わり、戦時体制に入った昭和のはじめ、昭和30年代の終わり・・・と、段階を追って薄れていき、すっかり近代化します。そのなかで、私たちが知り得る大きな変化は昭和30年代から40年代に掛けての時期だと思います。それ以前のことを知ってらっしゃる人に今聞いておかないと、地域が伝えてきた節句文化がわからなくなります。
その地域独特の七夕飾りをなさっていたような町の老人会を紹介してもらい、そこで聞き取りさせていただくこともあります。牛をめぐる習俗についても、古い暮らしが遺されているような農村部の町で聞き取り調査の会を何箇所か設けられたら、いろいろお話が聞けるんじゃないかなと思うんですけどね。1人が思い出をぽつりと話されたら、別の誰かもすっかり忘れていたことを思い出して、1 + 1が2じゃなくて、相乗効果で話が盛り上がって収拾がつかないくらいになるかもしれませんね。また全然違う話題に流れる時もありますが、いろいろ聞けるんじゃないかと。
②歳時記や季寄せを調べる
ーー「牛冷やす」という季語は、農耕牛がいなくなった今では使われなくなった、なくなった季語ということを教えてもらいました。「牛冷やす」という季語の俳句にどういったもの作品があるのか知りたくなって、歳時記をくまなく調べるのがいいかと思い、京都府立図書館が所蔵する歳時記の、「牛冷やす」は夏の季語なので夏編を、全部出してもらう事にしました。後から歳時記の別の言い方に季寄せがあると知り、それはまだ調べられていませんが。1930年頃のものが古いようで、書庫から出してもらって、1冊ずつ「牛冷やす」の項目を確認しました。「牛冷やす」もしくは「馬冷やす」となっているものもありますが、どちらが見出しになっていても、だいたい併記されています。それから「馬洗ふ」「冷し馬」「牛洗ふ」と言った言葉が並びます。それで、その一つに「昔から使われている季語ではない」と記述されているものがありました。昭和34年(1959)7月31日刊行の平凡社の『俳句歳時記 夏』編です。それまでにも、なんとなく農耕牛のはじまりはいつ頃からなのかが気になっていたけれど、やっぱりそんなに昔から使われているわけではなかった、というこの記述には大きな発見がありました。
農耕牛のはじまりが気になっている理由には、他にもいくつかあって、最初に取材をさせてもらった花脊の93歳のおじいさんからの取材で、農耕牛の前は荷運び用に馬を飼っていた話があったり、岡山の女性も必ずしも牛でなく、馬を飼ってたところもあるという話をしていて、使役に使われていた動物が必ずしも牛でなかった事や、仏教や法律で禁止されていた日本の食肉制度が、明治以降が解禁され、農耕牛から肉牛に流れる但馬から松阪への牛のルートができる事で、農耕牛が食用と兼業になったことなど、変化が激しいことが念頭にあります。農耕牛の終わりが昭和30年代のトラクターや耕運機の普及とわかっているけれど、じゃあ農耕牛の始まりはいつなのか?がますます気になります。
O:季語の旬が短かったんですね。
「牛冷やす」という季語を調べるというのは、ユニークな発想ですよね。農耕文化の変容を知る手掛かりになりそうですね。
私も雛人形の季語を季寄せで調べていたことがあり、「ひな祭り」っていう言葉があるじゃないですか?「ひな祭り」という言葉の登場は案外遅く、一番最初は「ひ(ゐ)な遊び」なんです。「祭り」や「飾り」という言葉はグンと後になります。おひなさまは飾るものだ、と私たちは思っていますが、「ひ(ゐ)な遊び」自体は平安時代、貴族社会で行われていた女児の人形遊びをさす言葉なんですよね。「ひな祭り」や「ひな飾り」は大体何時頃から定着したんだろうと問う時に、俳句の季語を調べるのも有効だと思います。決め手には欠けるんですが・・・。「ひな飾り」や「ひな祭り」という言葉が使われ始めたのは18世紀ぐらいでしょうか。実際、文献や絵図なんかを見ても、町家のお座敷に毛氈を敷いて、雛人形を飾ってるな、という状況が現れるのは1670~1680年代のこと。19世紀の浮世絵などには、雛飾りが施されたお座敷で女性たちが楽しそうに雛料理を運んだり、話をしたりする風景が描かれているのですが、その周りで少女が立ち雛を持ってはしゃいでいたりします。
③江戸の文献や古文書
O:江戸時代の文献に農耕牛を探すのもいいかもしれません。
「歳時記」や「季寄せ」という言葉からのアプローチではなく、『守貞謾稿』や『嬉遊笑覧』とか、江戸の風俗を集めた有名な文献がいくつかあります。『守貞謾稿』は喜田川守貞が書いたもので、生業の項目に農業に使われた牛が出てくるかもしれません。『大和耕作絵抄』はどうでしょうか。この文献は石川流宣が書いたもので、江戸時代初期の年中行事や農業の様子がよく描かれていますので。あ、ちょっと見てみると牛と馬もいますね。1700年代の文献なので、その頃には農耕のための牛や馬がいたということがわかりますね。
それから、貝原好古の『日本歳時記』にもぜひ当たってみてください。
■■農耕牛のこれまでの調査のよもやま話■■
ーー狩猟動物と家畜動物の違いについての違いも調べたりしてました。
O:人間と牛や馬は、それだけ近いですね。
ーー『世界の民芸玩具 日本玩具博物館コレクション』(尾崎織女,大福書林,2020)で、アフリカのケニアでは牧畜で生活している人たちにとって家畜の牛が大事にされている話を読んでいると、国や地域によっても、牛の捉え方が全然違いそうだな、と思いました。私なんか農耕牛を調べる前は家畜というよりも、料理に出てくるお肉の牛や牛乳くらいとしてしか知りませんでした。
O:ブルキナファソという西アフリカの農業国から来ている方と親しくさせていただいていて、彼はジャンベという太鼓を叩き、ンゴ二やコラ、バラフォンなどの民族楽器を自由自在に演奏するひとなのですが、太鼓が破れた時に播磨の太鼓職人の方に相談して、牛革などを自分の手で張ったりされています。
その演奏家が、初めて玩具博物館を訪ねてくださった折、展示のなかに、ブルキナファソのホロホロチョウの木彫りを見つけてとても喜んでくれました。「故郷のホロホロチョウにそっくりだ」と言って。でもそのあと「美味しそう」って。普段はめったに食べないけれど、お客さんをもてなす時などには、捕まえて料理をするのだそうです。犬も家の内外で暮らしているらしいのですが、名前を付けないのだとか。ペットとして飼っているのではないから。必要な時には食用にもなる。一方で、大切にする・・・。
ーー特別だから可愛がるし、特別だから食べるときも「美味しい」になる。
O:そこをどうやって超えていくのか、気になりますよね。
ーー日本だと明治時代に牛肉の食肉文化が輸入された歴史があるので、またケースが違います。
O:先ほども話しましたが、明治生まれの私の祖父母は、仏教的な観念からか、また西洋の食文化を受け入れられなかったためか、牛肉は食べなかった。古来の食文化において、禁忌とされたようなことを破ってしまうのは人間として恥ずべきことだというような想いもあったと思います。
ーーその一方で、武器とか武具を作りたいので、差別をさせて囲うような政策的なものがあったのかも、という話も調べていると出てきて。それが近代になっても差別の形だけが残ってる。動物を食べるのも、皮に加工するのも、技術がすごい。
O:使われ方によっては、金属よりも皮の方が強いって言いますものね。動物の皮が鎧などの武具になる。皮革に関わる職能集団だったんですよね。高い技能を持つ人たちを逃したくなかったんでしょうか。
生命が枯れた人間や動物を扱う人々は、中世までは特別な領域にあったそうですね。死と生の間に立ち、いわば、異界と交信できるような位置にある人たちを畏れる感情が差別に結びついていく過程には、精神構造に変化が起きたのか、それとも、為政者の政策的な意図があったのか・・・。
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尾崎さんとのお話しの後、博物館の周りを散策していると、田園風景が広がるずっと遠くの方でしきりに雷が鳴っていた。このあと雨が降り出したりするのかな、と思っていたけれど、ここでは夏の間中、ずっと雷は遠くの方で鳴るばかりで、なかなか雨は降らないらしい。
近所にある香寺民俗資料館へ行き見学させてもらったりしながら、時間があっという間に過ぎる。
Nさんの仕事が終わる頃に再び玩具博物館に戻り、一緒に連れてってもらい、Nさんの家のお墓にある牛のお墓を見せてもらう。ずっと探していた牛のお墓をみせていただく大変貴重な機会を頂き、とても盛り沢山な調査となった。
N:牛のお墓の石のここにひいおじいちゃんの名前が書いてあって、施主ですね。昭和27年1月16日。石がどうしても風化してしまいますね。
ひいおじいちゃんは、うちの父のおじいちゃんになります。なんかこう、可哀想という感情もあると思うんですけど、祟られたりしないようにとか・・・そういったこともあるんかな、と思うんです。ちゃんと弔ってるのは。
昔に蛇もトラクターとかで殺してしまったら、庭でまつって、毎月卵を 供えたりしてたんで。やっぱりそうやって殺してしまったりすると、祟られるかもしれないというような怖れの感情もあるのかな、と思ったりしてしまいます。
ーー毎月蛇に卵を備えてたんですか?
N:そうです。それはおばあちゃん家でしてましたね。あやまって蛇を殺してしまって、それで、神社かどっかの人に相談をしにいったら、こうしなさいと言われたみたいで。そこから毎月お庭にそうやってまつっていたようですけどね。月一回とかかな。そういう習慣になってました。お水と卵と。それで怒りを鎮めてもらうとかがあるんでしょうね。
ーーおばあちゃんたちはお百姓さんですか?
N:そうです。この辺に家と田んぼがあります。
ーーこのお墓には牛さん自体は入っていないんですね。
N:入ってないと思います。遺体は博労さんが引き取ったんだと思います。それはこの牧場のOZさんの先祖の人たちがしていたんだと思います。なので、OZさんに聞いたらそういったこともわかるかもしれません。訪ねてみられますか?
と、Nさんに連れられてOZ牧場さんの方へ。でも牧場の人はその時は見当たらなかった。
N:牛は昔から見慣れてて、当たり前にあったから別になんとも思わず。
ーー牛を調べてると言いつつ、全然見慣れてなくて、どのタイミングで見るんかなと思ってました。
N:昔はもっと沢山飼ってたけど、今は海外の牛もあるし、人手もいるし沢山は育てられらないんでしょうね。今、牛糞が積んで置いてあるところも、以前は全部牛がいたんですけどね。
昔は牛に草をやって遊んでました。その辺の草を採ってきて、食べさせてましたね。あかんねやろうけど。それがこの辺の子供の楽しみになってたんですよ。
https://gyazo.com/b6f0da9f25eaac042f49cd25e4cac34a
牧場にいた牛
https://gyazo.com/0b8b3b980c84b60d1693098881fc2e80
兵庫・姫路土人形 寝牛
https://gyazo.com/09d77a23982448a38f03aa21b35c90c2
福島・会津張子 赤べこ
https://gyazo.com/15b026428059e5b82bdc52d000654ffb
日本玩具博物館
https://gyazo.com/3641dcb656ab74e82d1775bd83f5509c
天神さんと牛
https://gyazo.com/a2f779d34a1277faf651d2b042bce454
中国の玩具 牛がカラスキを引いているところ
https://gyazo.com/27d0f39348d9bc40d453ee1c405c2cac
新潟・小千谷の木牛の玩具
https://gyazo.com/6ac9ca9f76dd64b813d48a3ab16875e4
近所の香寺民俗資料館
https://gyazo.com/2ce7d2c48c25f30ebe5db40b20e9d564
京都・伏見土人形 一文牛
https://gyazo.com/efa5acce99079a154842094693154dfa
牛のお墓 昭和27年
https://gyazo.com/d79f00eba838444140a9ca4a3fcfcd45
牛のお墓 正面
https://gyazo.com/7b4f310f6bc70404989d60f588e3c69d
牛に乗る人の玩具
https://gyazo.com/4dfc8d776186c1d186e057cfe99270d0
夏の夕方になるとずっと雷が鳴る空
https://gyazo.com/9be779f5183fc8a7d53952c52cb2d91f
ペルーの玩具 人形は昔はジャガイモで出来ていた
野咲タラ