[エッセイ]農耕牛にまつわる明治時代の行政文書をめぐる調査
2023年6月7日(水)
京都府立京都学・歴彩館 (以下、歴彩館)のOPACで「農耕牛」をキーワード検索すると出てきた資料に「農耕牛相療図解及馬療図解各1部づつ送付に付添書」というものがあった。詳細がわからないまま閲覧希望としてカウンターに持って行ったら、これは行政の往復書簡ということらしく、閲覧可能な資料かどうかの調査が必要だということになる。また、行政資料は色々と決まりがあり、例えば、個人情報があればその部分を隠した状態でとこ閲覧する。該当資料はひとまず閲覧が可能な資料と判明するが、実際に閲覧が可能になるまでの手続きにもまた時間を要するらしい。どういった内容の資料か全くわからないけれど、閲覧のための予約申し込みをする。 公文書担当の人と農耕牛について盛り上がる。とても親切で丁寧なレファレンスで、利用者としてはありがたい。「農耕牛という言葉を知らなかったけど、教えてもらって嬉しかった」と言い、謎の交流が始まり、私の拙い農耕牛談義を聞いてもらう。そのあともその歴彩館で調べ物をしていると、追加の資料も出してくれて、その資料がおもしろい。京都府の近代についての出来事が年表にまとめられた書籍だった。他にも香川の風習である借耕牛に関するレファレンス事例を教えてくれる。またその事例に載っている図書館に、もしかすると「農耕牛」についての資料があるかもしれない、とアドバイスをもらう。 2023年7月5日(水)
1ヶ月後、予約の末、見せてもらった該当文書は見開き片面、たった1ページだけだった。公文書担当の人は「ホントこれだけで、すみません」と親切に言っていたけれど、私としては初めて見る行政文書で興味津々である。明治以前の例えば幕府などといった行政関係や寺院関係などの書類が古文書で、明治以降の行政関係書類を行政文書という。この行政文書の字は楷書体ではっきりと書かれていて、とても読みやすい。もっと達筆で崩しすぎた読めない文字で書かれた文章もあると公文書担当の人は教えてくれる。しかし字は読めるけれど、文章が難しくて書かれている内容を要約してもらうと、明治時代の京都府の行政記録であり、東京府に住む個人から、「農耕牛相療図解」「馬療図解」という二冊の本が納本されたという事実についての覚書のようだ。日付は明治12(1937)年12月27日。公文書担当の人曰く、おそらくこれらの本は各都道府県に納められた本だろうとのこと。この行政文書は自由に写真を撮っていいというので、私はせっかくなので、存分にいろんな角度からこの一枚を撮ろうと思い、合計で7枚も写真を撮った。だけど、さすがに図書館側の管理はちゃんとしており、撮った写真の数をきちんと書類で報告しないといけないことをあとで知り、ちょっとだけ恥ずかしかった。
親切な公文書担当の人は以前の農耕牛についての遣り取りを覚えてくれており、京田辺市のHPに農耕牛のことが書かれているとの情報を教えてくれる。確認すると、「一昔前の京田辺のくらし:牛での耕作」というコーナーがある。農作業の閑散期は牛は動くことが少なく、運動不足を解消するために引っ張ったりする石があるという。牛をあばれないように疲れさせる目的もあり、農耕のための訓練をするものでもあるようだ。この石の話は農耕牛にまつわる知らない風習である。また、初見ではないけれど、藁製の牛用草履も掲載されており、牛に長時間固い道を歩かせる場合に履かせる。 親切な公文書担当の人を中心に司書の方3人程が、こぞって「農耕牛」を調べることに協力してくれる。どういったキーワードで検索をしたら「農耕牛」が該当するかを検討していて、私がバクロウを伝えたところ、京都の上京区に馬喰町があることがわかる。 2023年7月6日(木)
翌日の昼、京都のバクロウ町のことを思い出し、GoogleMapで調べたところ、その場所がそのまま北野天満宮だったので驚く。しかも天神さんの神使は牛だ。また、牛市と天神さんの市との関係性もあるのだろうか。疑問が膨らむ。 また、明治期に京都府へ納められた本はきっと国立国会図書館のデジタルコレクションに所蔵されているのではないかと「農耕牛相療図解」「馬療図解」を検索する。「農耕牛相療図解」はヒットせず、「馬療図解」は11件ほどあった。ヒットした資料は官報系の資料のようで、説明などがあるものでもなく、結局詳細がよくわからない。「馬療」は国の公営牧場である官牧の馬を飼育や調教をする役職になるらしいことがようやくわかる。だけどもう一つの「相療」という言葉は出てこない。なぜ「相療」が出てこないかということは間もなくわかる。
2023年7月8日(金)
そういえば、となんとなく以前に同じ図書館で貰った香川の借耕牛のレファレンス事例が載っている資料を見直してみる。備考の定番事例の二つ目に「農耕牛病相療図解」という文字列が書かれていることを発見して驚く。そしてこの記述により、行政文書に記載されている書籍名は「病」の字が抜けている脱字であることが判明した。
・農耕牛相療図解
・農耕牛病相療図解
昔の人も書類の字を間違えるものなのだなと親近感が湧いたり、楷書だから字が間違ってるのがわかると感心したり、脱字の書類を7枚も写真を撮っていたことに妙な面白さを感じながら、早速国立国会図書館デジタルコレクションで正しいタイトルを検索して確認すると、該当書籍はすぐに見つかる。行政文書に記載されている納本者はこの本の著者であり、書籍の内容は牛の病気についてのようだった。詳細な書籍内容はこちらの本文は達筆でよくわからないが、生き生きとした線で牛の絵の挿絵が豊富に描かれている。
次に気になったのは、納本者であり著者である福井数右衛門なる人物が誰なのか。インターネットで調べてみたところ、 高橋是清を題材にした小説のあらすじが1件だけ引っかかる。しかしその1件がまた驚くべき内容で、それによると福井数右衞門は高橋是清に詐欺を働いた人物であるということだった。しかも畜産事業のもうけ話においてである。高橋是清とは二・二六事件(1936年2月26日-2月29日)で暗殺された政治家で、元総理大臣であり、元日本銀行の総裁だ。思いも寄らない急展開に、さらなる混乱が訪れ、迷宮への入り口に立たされているような心地になる。
2023年7月9日(日)
しかし翌日、ここは一旦冷静になり、一次資料を確認することにした。国会図書館のデジタルコレクションで福井数右衞門を調べたところ、100件弱が該当した。福井が登場する資料は大きく二つに分かれ、肉食関係の歴史本か高橋是清の自伝である。
まずは食肉関係の歴史本をあたる。『日本肉食史』(福原康雄 著 食肉文化社, 1956)によると、明治になり近代化、西洋化によって多くの人々がこれまでは禁止されていた牛肉を食べるようになっていくけれど、当時肉牛についての取締についての法律がなかったので、次第に不正・不良肉を販売する悪徳商人が横行した。特に明治4(1871)年、牛疫が流行するような状況で、同年7、8月頃、浅草在住の福井数右衛門が、売肉取締には検査が必要であることを主張し、有志が団体を作り検査の責任を負うという内容の建白書を東京知事に進呈する。知事はこの申立を受け入れ、福井に検査方兼団体の頭取を命ずることになる。福井は牛肉の価値を向上し、商人の信用を高めるため、結社・組合を作ることに奔走する。
検査とは現代にすれば不十分なものらしく、単に外見上の検査に過ぎなかったようだけれど、一方で、今日の肉牛の検査規則制度の端緒をなしたものであることは疑いない事実として、この書籍では一定の評価をしている。
また、組織化への取り組みとしては、売肉商人を二種類に分ける。道端で売る「辻売商人組」、店舗を持つ「牛なべ売店組」として、目印に各々社組の看板を掲げさせた。
福井の経営者として、また検査方としての任務は、明治9(1876)年11月まで続く。東京府の管轄であった肉牛管理が警視庁の管轄となり、明治10(1877)年には警察官および獣医が派遣された施設が新設される。そして、福井ら従来の頭取結社等は明治10年2月19日に全て廃止になる。頭取結社廃止の理由の一つとして、福井の会社に長年不正があったことや、一部には彼の行動を批判する者もあったようである。
この資料によると前半部分の福井の業績は、「農耕牛病相療図解」に通ずるところである。牛の検査の話などから、ここに登場する福井数右衛門はやはり「農耕牛病相療図解」の著書であり、納本者である福井数右衛門なのだろう。しかし、後半部分が意味深である。
次に、高橋是清の自伝をあたる。高橋是清が口述する自伝は複数の出版社にて刊行されており、国会図書館ではそれらがデジタル化され所蔵されているのが読めるのだが、表記が読みやすい『是清翁一代記 上巻』(高橋是清、口述,朝日新聞社,昭和4,1929)を参考にすることとする。
この自伝の初出の福井は明治2(1869)年頃で日本橋の古着屋として登場するが、のちに明治10(1877)年頃、牛を介して再登場する。明治10年頃と言えば、先程の肉牛の歴史書において、福井の頭取結社が廃止になった頃である。詐欺の部分を要約すると、高橋は福井に乳牛事業の投資を促され出資する。最初その儲けはいくらか届けられ、そのうち明治10年の春、高橋は福井から信州の牛馬羊豚市場の改良計画の話を持ちかけられる。改良計画というのは、市場に賭博場を併設させることだったらしく、それを友人に相談したところ、好感触だったので高橋も資金調達に尽力し、友人が出資した金の保証人になる。また福井からはさらに、高橋がアメリカ滞在時に牛や馬を扱ったことがあるので、改良計画を信州で進めて欲しいと頼まれる。しばらく高橋は信州現地で改良計画に奔走して、市場の設置許可をとり協力者を募る。しかし、福井が牛を送る段階になり雲行きが怪しくなる。1ヶ月経っても、2ヶ月経っても、福井から返事が来ず、人づてに様子を見にやらせると、福井宅は立派な新築になっており、訪ねて行っても不在と言われ続け、漸く高橋もこれが詐欺だと理解して、信州から東京へ戻る決心をする。
帰路の旅費もままならないまま、信州の諏訪湖ぐらい見学をしようと思い、料亭に泊まったら眺めがよく、温泉もあり二晩さんざん飲み食いして散財したらさらに金がなくなり、同行している伊藤という人が、「来た時は籠に乗ってきたのに、帰る時は籠じゃないのは体裁が悪いから、帰りも籠で行きましょう」と提案したところ、高橋は「じゃあ私だけ籠で、君は家来ということで後から歩いてついてこい。どこまで乗るかわからんから金は後で払うことにしよう」と応じる。籠に乗った高橋は、宿から出て人気がいない道まで来るとすぐに籠を降りる。伊藤が「そんなに太ってるのに、徒歩で峠が越せますか?」と嫌味を言うにも高橋は「歩くのは大好きだ」と言って僅かの距離の籠代を払った。
等々、自伝では高橋が信州から東京に帰るまでの道中の話がまだしばらく続くので割愛するけれど、どれも話の巧みさを備えたエピソードであり、おもしろい。この高橋是清自伝は、シェイクスピアの翻訳で名高い中野好夫も編者にいる筑摩書房の世界ノンフィクション全集第50巻にも収録されてる。収録意図の真意は不明だが、なるほど、中野好夫を魅了するだけのことはあるように思う。
それから東京に戻ったあとの高橋の、福井に騙された事態への身の引き方が潔い。福井を叩くといくらでもボロは出るが、一向に金を返そうという気配がなく、拉致があかないので、自分の方で保証人をした相手に金を返したということで、自伝の方ではこの一連の事の顛末は終わっている。
以上が福井数右衞門について調べた結果である。当時そう何人も牛の事業に纏わる人物に福井数右衞門という同姓同名がいた訳ではないだろうから、高橋是清を騙した福井数右衞門は、「農耕牛病相療図解」を書いた福井数右衞門だろう。
『日本肉食史』には「福井の晩年がどうなったかは知るよしもないが、彼が屠牛検査の始祖であり、食肉組合最初の創設者である功績は、永久に食肉業界に業績と為すべきである。」と記述され、それがとても無難な書き方のように思われる。しかしながら、福井数右衞門の自伝がもしあるのであれば、読んでみたいと思うところでもある。
行政文書に脱字で記載されていた「農耕牛病相療図解」という一冊の本から垣間見たのは、明治時代の近代化・西洋化の流れで肉牛が解禁されたあとの、新しい文化としての肉牛人気と、制度的混乱、そこからの肉牛に対する現代につながる衛生整備の歴史であり、また人気と混乱を利用した牛馬羊豚市場にまつわる詐欺事件だった。調べるうちに農耕牛は肉牛と切り離せないものであるとは思っていたけれど、思わぬ話にたどり着く。そして、それは今日的な問題に通じる話でもある。脱字してようがなんだろうが、行政文書は後世でどんな発見があるかわからないので、やはりきちんと保管されていた方がいいように思う。
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京都府の公文書「農耕牛相療図解及馬療図解各1部づつ送付に付添書」の写真(京都府立京都学・歴彩館所蔵)
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歴彩館でもらった農耕牛のレファレンスの参考資料
野咲タラ
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