人間を行動で評価すること
Nrem.iconNrem まず、「敵意」「悪意」「害意」の違いを明確にしておきたい ここでいう、
#敵意 とは、いかにも何か害意のあることをやらかしそうな敵対的なまなざしを他人に向けていることとしよう。そこには何らかの警戒の色が読み取れることが多い なぜ「敵意」を行動ではなく態度の問題とするか。「敵意ある行為」とはあまり言わない。強いて例を挙げるなら、「敵対行為」などと言うだろう(軍事か)
仮に自分がそのような態度を向けられても、気づかぬふりをして普段通りに接するのがよいだろう
その人が実際に何を行うかとはあまり関係がないので行動予測の指標にすべきではない 一方で、いかにもな敵意のオーラを発しながらあからさまに悪意のある行為をする人がたまにいる(主に男性)
#悪意 とは、何らかの行為によって他者に損害や不利益を与えたいという「動機」の部分を指す 動機のことを「主観的意図」と言い換えてもいいかもしれない
#害意 とは、ある行為によって他者に損害や不利益を与えることを企図していること 「悪意」との境界は必ずしも明確でないが、これは行動そのものに付随する。行為なき害意は成立しえない
行動の結果が遡及的にその行動の価値を決めることとしよう。善意のもとに行われたかどうかは直接関係しない
一方で、実際にこちらにどのような影響が出るかという、行為そのものの結果を予測することには価値がある
重要な区別として、結果として損害や不利益を与えることと、本人が「善意」「悪意」「害意」のもとに行っていたかどうかは同じではない
この観点では「偽善的」かどうかという道徳評価も直接的に問題にならない
予防的意味で「害意」(危害)の有無をみるのは無意味ともいえない
行動単位ではなく個体単位で「信頼」する人は普段から周りの人のことがあまり見えていないように思えてならない この二分法に沿って動く人は、だいたいいつも無能な働き者事案の典型のようになりやすい 自分は悪意ある行為を普段通りの態度で行ってもその時まで誰にも気がつかれなかったことがある(※子供の頃の話)
社会的行動の予測能力は人生の最初期からその傾向がみられるものだという経験則を持っている。それこそ幼稚園くらいの年代で既に表れているということ なぜか「他人の善意を信じるな」「存在しない善意を信じている」などの言葉が自然に出てくる人がいるが、多くの場合、これはその人自身が人間の「行動の動機や意図」に価値を置いているからだろう この暗黙の前提が自動的に成立する世界観を共有していない人がこういった言葉をかけられても、逆に相手が自分のどういった振る舞いを見てそれを言おうと思ったのかを把握するのに時間を要することになる 自分にとってはむしろ、「この人自身が社会的行動の予測能力が乏しい人社会的行動の文脈や意図を読み取るのが不得手な人なのだな」という指標になることが多い。もし他者の行動の動機や意図を察知できる人であれば、それが行動予測の指標にならないことを知っていなければおかしいとさえ思う