「行為の意図」に重心を置くべきではない
Nrem.iconNrem まず、「敵意」「悪意」「害意」を区別してみよう。
ここでいうところの、
#敵意 とは、いかにも何か害意のあることをやらかしそうな敵対的なまなざしを他人に向けていることとする。そこには何らかの警戒の色が読み取れることが多い
仮に自分がそのような態度を向けられても、気づかぬふりをして普段通りに接するといい
その人が実際に何を行うかとはあまり関係がないので行動予測の指標にすべきではない
一方で、いかにもな敵意のオーラを発しながらあからさまに悪意のある行為を行う人がたまにいる(主に男性)
#悪意 や #害意 とは、行為に他者に損害や不利益を与えることを企図していることとする
自分は、悪意ある行為を普段通りの態度で行ってもその時まで誰も気がつかなかったことがある(※子供の頃の話)
社会的行動の予測能力は人生の最初期からその傾向がみられるものだという経験則がある
行為そのものとその行為に付随する意図は別。行動の結果が遡及的にその行動の価値を決める。それが善意のもとに行われたかどうかはそこには関係がない。
一方で、実際にこちらにどのような影響が出るかという、行為そのものの結果を予測することには価値がある
なぜか「他人の善意を信じるな」「存在しない善意を信じている」「地獄への道は善意で舗装されている」などの言葉が自然に出てくる人がいる。これはその人自身が、人間の「行為の意図」に価値を置いているからに他ならない
自分はこの暗黙の前提が自動的に成立する世界観を共有していないため、人からこのような言葉をかけられても、その人がこちらのどの様子を見てどういうつもりでその言葉をこちらに伝えようと思ったのかを把握するのに時間がかかる。
むしろ、「その人自身が社会的行動の予測能力が乏しい人社会的行動の文脈や意図を読み取るのが不得手な人なのだな」というサインとして受け取ることが多い。
私のように、自明なことのように他者の意図を察知できる人間であれば、人間の主観的意図が行動予測の指標にならないことを知っていなければおかしいため
? そしてこの予感はよく的中する