監視技術の道徳主義的利用
東浩紀による監視社会論の概念で、特に日本における監視社会化(監視技術の私的利用の拡大)が、日本社会特有のムラ社会の論理に導かれていることを懸念するもの。 最近の日本でむしろ目立ってきているのは、「監視技術の道徳主義的利用」とでも言うべき最悪のパターンではないでしょうか。冒頭に挙げた環八の看板がいい例ですが、それ以外にもさまざまな話を聞きます。マンションの監視カメラは、多くの場所で、防犯対策だけではなく、ゴミ出しの監視に使われ始めている。小学校の監視カメラは、不審者の侵入防止のため校門に設置されるではなく、イジメ防止のため体育館裏など校内の死角にも設置されようとしていると聞きます。そもそも日本では、監視カメラの整備が地方の商店街で急速に進んでいます。犯罪率がそれほど高くない地域でも、盛り場を24時間監視するシステムが作られつつある。その背後にあるのは、国際テロに対する危機感でもなければ、凶悪犯罪に対する深刻な不安でもなく、もっと単純に、少年少女の「非行」を抑え込み、共同体からホームレスや外国人を追い出そうとする古くからある素朴で陰湿なムラ社会の精神のように思えてなりません。 僕はこの点は、たいへん懸念しています。よく言われるように、日本社会は、そもそもが閉鎖的な社会です。僕たちはそのことを十分に自覚しておいたほうがいい。そして、そういう拭いがたい閉鎖性とムラ根性にハイテクの監視技術が結びついたときに、何が起きるか。それは、おそらく、ヨーロッパやアメリカとはまた別種の悪夢的な社会になるはずです。
というわけで、「情報社会論」連載時には明確ではなかったのですが、いまでは、監視社会についての議論は二つに分けたほうがいいような気がしています。 道徳か技術か。この二項対立が成立する局面においては、僕は、技術で治安を守ることは不可避だと考えます。しかし、技術で道徳を再強化することには、まったく賛成できません。
テロが起きそうならば、あるいは殺人や強姦の危険性が無視できないほど高いのであれば、監視カメラは備え付けるべきです。僕は、そんなところで、プライバシーの侵害云々と騒ぐひとは愚かだと思います。しかし、「ゴミ出しのマナーを守らないやつがいる」「空き缶を捨てるやつがいる」「夜中に騒ぐやつがいる」といった日常的な不満不平を解消するため、公共の施設や道路につぎつぎとカメラを設置していったら、これはもう切りがありません。そもそもコストがかかりすぎです。マナーの問題は、どれだけそれが不毛だったとしても、話し合いで解決すべきで、安易に監視技術に頼るべきではありません。