無内包の現実性
・ まだ十分に読み込んではいませんが、以下のような簡単なコメントを返しました。こちらにも書き留めておきます。
【入不二のコメント】
・ 絶対現実は、「現に」という副詞的に働く「力」なので、「(極限的に)広い」「(全てを)包括する」・・・という言い方は、少々ミスリーディングかなと思いました。というのも、「世界を包括する」のように述べてしまうと、なんだか集合どうしの包摂関係のようにも聞こえてしまうからです。「現に」という力の遍在性は、集合どうしの関係とは違います。 ・ 私のほうは結局、「現実(性)」を三段階で考えていることになります。
絶対現実 ─ 中心化された現実 ─ 相対現実
無内包 ─ 脱内包 ─ 有内包
無様相 ─ 様相の潰れ ─ 様相内的な現実
・ その観点からは、〈私〉や〈今〉は、この三区分の真ん中に位置している中間現象のように見えているわけです。
・ そして、その私の観点から言っても、〈私〉や〈今〉は、人称性や時制性は残しながらも、メビウスさんが考えているようには、有内包(個体)では全くないと思います。〈私〉や〈今〉は、いっさいの事象内容性を伴わず、まちがいなく「無内包」です。私の観点から、無内包/脱内包を区別しているだけで、最も重要な分割線を「一本だけ引け」と言われれば、(上記三区分の)左側二つと右側一つとのあいだに引くことになります。 ・ 「無内包」と「有内包」の差異を重視するという点、また無内包の現実性と中心性を峻別して論じる点に関しても、永井さんも私もそれほど大きく違わないのではないでしょうか。もちろん、関心の重み付けは異なりますが。 ・ それでも違いのほうに拘るならば、永井さんが、現実(様相)・私(人称)・今(時制)を、同型の構造を持つ三領域として、ほぼ平等に扱おうとしているのに対して、私のほうは、「現実(性)」だけを様相・人称・時制の区分から離脱させて働かせようとしているという違いがあります。その違いは、時間の動性の捉え方の違いにも影響を与えているかもしれません。 ーーーーーーーーーーーー
・ さらに、独在的な原点(開闢点)の他人物への遷移可能性を認めるならば、その遷移する何かは無内包の現実性とは異なる「有内包の独在的現実」でなければならないというメビウスさん自身の論点についてはどう思うかと訊ねられたので、以下のようにコメントしました。 【入不二のコメント】
・ その点に関しては、事態は明らかであるように私には思われます。
・ 〈私〉を、中心化された無内包の現実(=独在的現実)と理解する限りは、そもそも「遷移」や「移行」(別の人物に「なる」こと)は不可能である。つまり、原点が(ある人物のところに)「現にある」ということだけが可能であって、その原点が人物Aから人物Bに移るということには、そもそも意味を与えることができない。 ・ 一方、そのような「遷移」「移行」に意味を与えることが可能になるためには、記憶や性格をはじめ、何らかの事象内容的な(人物としての)連続性や変化が必須となる。そして、「遷移」「移行」がそのようにして有意味になると、その有内包性によって独在性は、人物特殊性や個性などへと頽落する。 ・ このジレンマの観点からは、「有内包の独在的現実」という言い方自体が矛盾しているように見えます。 ・ ただし、そのジレンマ的あるいは矛盾的な状況を、むしろ積極的に受け入れて、無内包かつ有内包であることこそ、それこそが「独在的な存在者」のあり方だと見なす道は、それはそれで「あり」だと思います。 ・ ただしその場合には、メビウスさんのように二つに「分ける」のではなくて、矛盾的に同居共在すると言うべきだろうと思いますが。
・ この矛盾的共在の観点から言うと、遷移可能性も、単純に肯定されたり否定されたりするのではなくて、次のようになります。 参照