哲学の練習をしよう
入不二基義
哲学ってなんだ?
「哲学」という言葉を聞くと、皆さんはどんなイメージを持つでしょうか? おそらく「難しい」「何の役に 立つのかわからない」「自分とは関係のないもの」……という印象を持っている人が、かなり多いのではないでしょうか。
実は、哲学は皆さんが思っているよりずっと身近にあって、むしろ身近すぎるからこそ分かりにくいのかもしれません。「哲学ってなんだ?」を考えるための手がかりとして、私の小学生の頃に出会った“哲学的な原体験”についてお話ししましょう。
小学校低学年の頃、同じクラスの友だちが九州へ転校することになりました。「もう会えないなんて寂しいね」と、友だちとの別れをみんな惜しんでいました。ちょうど同じ頃、知り合いのお葬式があって、葬儀場では周囲の大人たちが、「もう会えないなんて寂しくなりますね」と、同じように故人との別れを惜しんでいました。
友人の転校と知り合いのお葬式に臨んで、私の心には何かモヤモヤとした疑問が湧き起こっていました。「遠くへ引っ越して会えない」ことと「死んでしまって会えない」こと……、そんなに違うことなのだろうか? いったい何が違うのだろう? 同じようなものでは? そういう疑問でした。
小学生の頃の私は、「もう会わない」という点でどちらも違いはなく、同じようなものだと感じていました。「転校による別れ」も「死による別れ」も、「その人にもう会うことはない」という点では全く同じじゃないか、と思ったわけです。悲しむ大人たちの姿を葬式で見ながら、どこか腑に落ちない思い(死ぬことはそんなに悲しいことなのか?)を私が持っていたことも、影響しているでしょう。
そんな私が「遠くへ離れることと死ぬことは同じだ」みたいなことを言ったりすると、周囲の大人たちは「同じじゃない」とちょっと怒ったような顔つきで否定しました。「その二つは全然違うことだ」と大人たちは言っていました。
たとえば、大人は「今後会える可能性があるかないかが違うでしょ」と説明したりしました。死んでしまった人にはもう会える可能性がないけれど、遠くへ離れた友だちには、これからも会おうと思えば会うことができる……つまり、生きていれば会う可能性がある、というわけです。
私は素直な子どもではなかったので、このような説明では納得しませんでした。どんなに「会おうと思えば会える」と言ったって、実際には会わないならば(その引っ越した友だちとはその後会うことはありませんでしたし)、その「会わない」ことは、死んだ人に「会わない」ことと何の違いもないではないか……と感じていました。
さらに、こうも思いました。「会う可能性があるかないかが違う」と大人は言うけれども、そんな風に「可能性」を考慮に入れてもいいならば、死んだ人にだって「生き返る可能性」や「あの世で会う可能性」を考えることができる。ということは、「今後会える可能性があるかないか」を考えたとしても、死んで会えない人と遠くへ離れて会えない人との違いは、やっぱり無くなるのではないか……。どちらの場合も、同じように「可能性はある」わけですから。「実際には会わない」点に加えて、「会える可能性はある」点でも、やっぱり両者は違わなくなる。そう考えると、(同じようなものだという)自分の初発の直観が戻ってきて、スッキリしたのを覚えています。
これが、私にとっての「哲学的な原体験」とも言えるものです。もちろん、哲学をやり続けて今は大人になった私ならば、ここからさらに問いを先に進めることもできます。たとえば、「あの世に行って会える」可能性と「九州に行って会える」可能性って、同じ「可能性」と呼んでいいものなのか? とか、遠く離れた友人は、どんなに離れていても同じ一つの空間や時間の中にいるように思われるけれども、死んだ人の場合はどうなのか? とか……。
【補記】ちなみに、この先の「大人と子どものやり取り」のありうる展開については、ただいま執筆中の『現実性こそ神』(筑摩書房)の「はじめに ─「現実」問題の始まり─ 」の中で、「離別と死別」というエピソードとして書きました。その部分を、「現実」問題の始まりで公開しています。 でも、それは置いておきましょう。この「原体験」の段階に限っても、「哲学ってなんだ?」を考えるうえで、重要なポイント(特徴)を取り出せるからです。
一つは「視点を変えてひっくり返す」という点です。あるいは「疑う」「問い直す」と言い換えてもいいかもしれません。大人たちが当たり前のように思っている区別(転校による別れと死による別れ)も、視点を変えると不確かなものに変貌するし、もう一度視点を変えて区別をつけようとしても、さらに視点を変えると再び区別がつかなくなる……。「素直に」「滑らかに」考えて早々に終わろうとするのではなく、むしろ「躓き」続けながらも、見える風景を更新していく……。そういう思考の進み方に、哲学の原姿を見ることができます。
もう一つは「思考の紆余曲折を自覚的に行う」という点です。ふだん私たちが物事について「素直に」「滑らかに」考えるときには、思考の段階や順序について意識することはほとんどありません。しかし、先ほどのエピソードの中に現れているのは、「違う」から「同じ」へ、「同じ」から「違う」へ、再び「違う」から「同じ」へ……というような自覚的に行われる紆余曲折です。そういう正反対に振れるジグザグの道を意識的に辿ることによって、思考は多様化し、幅が広がっていきます。この「振れ幅」を自覚的に実践していく思考の進み方にも、哲学の原姿を見ることができます
哲学とは、そのように執拗に思考し続ける力のみを頼りにして、答えがない(かもしれない)問いに対しても挑むことであり、またその実践を活写することなのです。
哲学は何の役に立つのか?
「哲学は何の役に立つのか?」という質問を発する人がかなり多いことを、私は経験上知っています。この質問自体についても、先ほどのように(少しだけ哲学的に)考えてみましょう。
「哲学は何の役に立つのか?」と質問する人は、答える人に対して「哲学は〇〇のために役に立つ」という具体的な答えを求めていたり、逆に「哲学は何の役にも立たない」という否定的な答えを予想していたりします。しかし、そういう期待や予想を裏切る、どちらでもない方向へと進む方が、哲学的には面白そうです。質問に対して質問で応えてみるのもよさそうです。「哲学は何の役に立つのか?」という問いに対して、「役に立つとはどのようなことか?」「役に立つ/立たないを決める基準は何だと思いますか?」と逆に問い返してみるわけです。質問に質問で応じるのはズルいと思われるかもしれませんが、これもまた哲学の始まり方なのです。
多くの質問者は、「筋道をたてて考える能力を身につけるために役に立つ」や「歴史上の賢者の考え方を知るために役に立つ」などの答えを期待していたり、「哲学には実用的な効用などない」と突っぱねられることを予想していたりします。ということは、その期待や予想の裏には、実は質問者自身の「役に立つとは○○ということ」のような「判断の基準」が働いていることになります。「役に立つ/立たない」を振り分けるための基準(ものさし)を、自分は手にしていると暗黙の内に思っているのです。だからこそ、その基準(篩(ふるい))を通して、相手の答えを判定しようとするわけです。
しかし「哲学的に考える」ためには、そういう暗黙の基準(ものさし)を安易に受け入れないほうがいいのです。質問者の意に沿って「滑らかに」答えるのではなく、問いの段階で「躓いて」、立ち止まってじっくり考えてみた方がいいのです。
質問者が、単刀直入な答えがやって来ることを期待していたり、分かりやすい答えが出せない相手に文句を言うつもりだったり……という場合には、実は次のようなことが起こっています。質問者自身の「判断の基準(役に立つとは○○ということ)」自体が揺らいで変わってしまうというケースや、問いと答えのあいだの安定した関係自体が壊れてしまうケースなど、まるで無いかのごとくあらかじめ想定外へと追いやられている、そういう事態です。自分が問うときに依拠している(役に立つ/立たないを振り分ける)基準自体は確固として不動であると、暗に思っていることになります。
要するに、「哲学は何の役に立つのか?」と性急に問うことの裏側には、「役に立つ/立たない」を“自分が”きちんと判断できるという思い込み(ある種のエゴイズム)が隠れているということです。この場合の「自分」とは、一人とはかぎりません。「21世紀を生きるわれわれ」かもしれないし、「お金儲けがしたいわれわれ」かもしれません。いずれにせよ、問うている“われわれ”が判定する(できる)と思い込んでいるわけです。その「自分(われわれ)」に向かって、「役に立つ/立たないを、ほんとうに“お前が”決めてよいのか?」と問い直してみるときに、哲学は始まります。
ここまで来れば、とりあえず答えてみることができます。そうです、哲学はまさにこういうことのために「役に立つ」のです。「哲学は何の役に立つのか?」という、まさにその問いの裏に貼り付いている基準を意識して、その暗黙の基準から距離を取ってみるために、哲学は「役に立つ」のです。このような答え方自身が、「思考が自らに折り返すように思考する」という哲学のあり方の小さなサンプルになっています。
ここで述べたような仕方で思考することを、嫌ったり遠ざけたりする人たちも多くいるでしょう。「グチャグチャ言ってないで、分かりやすい答えを早く出せ」というように。一方、そういう多数派の中では生きにくさを感じ、押し潰されそうになってしまう人たちが(大人にも子どもにも)います。そうです、そういう多数派の「当たり前」に息苦しさを感じている少数派の人にとっても、哲学することは「役に立つ」のです。ある種の人たちにとっては、哲学的に思考することが、外の新しい空気を呼吸するための「救い」になりうるということです。ただし、この種の「答え」は、少数派のためのものであって、万人向きの「答え」にはならないでしょうが。
哲学とレスリング
私は51歳からレスリングを始めた現役のレスラーで、大学レスリング部の部長をやっていますが(注)、レスリングと哲学には似ている点があると常々思っています。
レスリングは、フォール(相手の両肩をマットにつけること)を目指して裸に近い状態で組み合う格闘技なので、「素の身体能力」が顕わになります。“wrestle”という動詞には二重の意味があって、特定の一競技としての「レスリングをする」ことも表しますが、他の格闘技の内にも含まれるような「取っ組み合う」こと一般も表します。つまり、レスリングは一つの確立されたジャンルであると同時に、他の格闘ジャンルの中にも入り込んで作動している普遍的な所作でもあるということです。
哲学は、他の専門分野(歴史学や物理学など)とは違って、特定の専門的な知識や方法をほとんど使わずに、「素手(すで)」の思考力だけを頼りに闘います。先述の子どもの私と大人たちの対話もその小さな一例です。「素」の側面が大きい闘いだという点で、哲学とレスリングは似ています。レスリングでは「素の身体能力」が、哲学では「素の思考能力」が問われる、と言ってもいいでしょう。また哲学は、人文分野の特定の一科目であると同時に、他の科目や分野の中にも深く浸透していて、他の領域の基礎として隠れていたりもします。つまり、哲学は一つの分野であると同時に、他の分野の中にも入り込んで作動している普遍的な要素でもあるということです。この二重性という点でもまた、哲学とレスリングはよく似ています。
さらに、哲学の対話は、ディベートやケンカとは違って、白黒つけて終わらせることを目指すのではなく、むしろ白黒が反転し続けていくことを楽しみ、両者が共に新しい次元へと開かれることを求めます。先述の子どもの私と大人たちの対話も、「何の役に立つのか?」をめぐるやり取りも、その小さなサンプルです。レスリングの場合もまた、(その試合ではなくて)日常的な練習として行われるスパーリングの攻防を見つめてみると、肉体言語による「白黒反転」の快楽と探究こそが、“wrestle”の核心にあることが分かります。この点でもまた、哲学とレスリングはよく似ています。
このように、哲学とレスリングという一見かけ離れたものどうしを比べ、遠くから俯瞰し、両者の共通性を鷲摑みにしようとする思考もまた、哲学の実践の一部です。
私はこのコラムにおいて、哲学をその外側から解説するような体裁をとりつつも、実はいきなり哲学の内側に入り込んで、すでに哲学を実践していたことになります。哲学についての話をするためには、その話自体が哲学にならざるを得ない。この点もまた、哲学の特徴の一つだと言っていいでしょう。コラムのタイトルは「哲学の練習をしよう」ですが、ここまで読んで頂けたとすれば、その読みの行為自体が「哲学の練習」になっているはずです。
最後に、哲学することに興味を持ってくれた読者のために、「入門書」として読むことのできるものを、私の著作の中から二冊だけ挙げておきます。興味がありましたら図書館などでさがしてみて下さい。
・ 入不二基義『哲学の誤読 入試現代文で哲学する!』(ちくま新書)
・ 入不二基義『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』(朝日出版社)
(注) 以下のURL(1.日経ビジネス・オンラインと、2.NPO法人スポーツ指導者支援協会作成動画)を参照。
2.ざまあみやがれ 入不二基義編「レスリング」
https://youtu.be/w08y4jJ8Bxs
参照