「現実」問題の始まり
以下は、執筆中の『現実性こそ神』(筑摩書房)の「はじめに」の冒頭部分である。 「哲学の練習をしよう」((青山学院大学 AGU RESEARCH 用原稿))で書いた「大人と子どものやり取り」をさらに細密に、そして先まで展開している文章である。 はじめに─「現実」問題の始まり─
離別と死別
一つのエピソードから始めよう。小学校低学年の頃、同じクラスの男の子が(親の転勤に伴い)遠くの小学校に転校することになった。登校した最後の日に、彼は先生から促されて何かひとこと挨拶をした。何を言ったかまでは覚えていないけれども。彼と仲の良かった男の子や女の子たちは、「もう会えないのかな」「寂しい」「元気でね」・・・などと言いながら、別れを惜しんでいた。
その転校と同じ頃に、知り合いのお葬式に親といっしょに列席した。大人たちは、「ご愁傷様です」「会うことができなくなって残念です」「寂しくなりますね」・・・などと挨拶を交わしながら、故人との別れを惜しんでいた。死別に際しての大人たちの様子は、離別の日の子どもたちに比べると、どこか不自然で大げさな気もした。
同級生の転校と知り合いの葬式。二つの出来事を比べながら、小学生の私は次のように思っていた。「遠くへ引っ越して会えない」ことと「死んでしまって会えない」ことは、どこがそんなに違うんだろう?「会えない」のは同じじゃん。なのに、大人たちはなんで特別なことのように悲しむのだろう。・・・そんな感じだったと思う。
小学生の私には、離別と死別(転校による別れと死亡による別れ)は、「もう会うことはない」という点で、どちらも同じようなものだと感じられていた。「転校による別れも死亡による別れも、その人にもう会うことはないという点では同じじゃないか」、「遠くへ行った人と亡くなった人では、寂しさはそんなに違うものだろうか?」と私は思っていた。そして、ひどく悲しむ大人たちの姿は、どこか滑稽な感じもあったし、私に居心地の悪い、腑に落ちない「しこり」のようなものを残した。「死ぬことはそんなに特別なことなのかなあ?」と半ば反発も感じながら思っていた。
同じ「会えなさ」か、違う「会えなさ」か
幼稚園の頃から「ひとこと多い」子どもだった私は、その葬式のときも「引っ越しと死ぬことは似ているね」みたいなことを言ったようである。こういうとき、多くの大人たちはちょっと腹を立てたような、あるいはちょっと困ったような顔で、「引っ越しと死ぬことは、ぜんぜん違うでしょ。失礼なことを言うんじゃないの」と私を窘《たしな》めた。でも中には、子どもにしては理屈っぽかった(?)私に向かって、なんとか説明しようとする大人もいた。「死んでしまった人には、もう二度と会えないけれど、遠くへ引っ越した友だちには、会おうと思えば電車で会いに行けるでしょ。だからぜんぜん違うのよ」というような説明だった。
要するに、死んでしまった人にはもう会う 可能性がないけれども、遠くへ引っ越した人ならば、会う可能性はあるというわけである。(会う)可能性が「ある」のと「ない」のとでは、決定的に違うのだと大人は説明したかったのだろう。こいつはまだ子どもだから、「会えると会えない」の違いがよく分かっていないのだ、と大人は考えたのかもしれない。
しかし、子どもだからと言って、馬鹿にしてはいけない。まだ幼くてその違いが分からないから、同じだ(似ている)と間違って思いこんでいたの ではない。むしろ、そういう違いはあることは分かっていても、それでもなお、「実際には違いはないのではないか」と思っていたのである。つまり、生きていたとしても実際に会わないのであれば(引っ越した友だちとは実際にその後一度も会っていない)、その「会わない」という点では、死んでいて「会わない」場合と違わないではないか、そう思っていた。今どちらの人とも会っていないし、明日も明後日も、1年後も10年後も20年後も・・・とにかく会わない。そんな風に、「会わない」という点では何の違いもない。「会わない」ということが実際に起こっているだけであって、それぞれに違ったことが起こるわけじゃない・・・と私は思っていた。
さらに言えば、「実際に会わない」人など無数にいる。その中には、死んでいる人も生きている人もいるだろうが、その違い(生きているのか死んでいるのか、「会えなさ」の意味の違い)など、一切気にしていない。大人だって、そうである。そもそも、「会わない」こと自体も特に気にかけていない。ただ「会わない」ということが起こっているだけである。そう考えると、離別と死別は、その一番根っこのところは同じ「会わなさ」の生起であって、基本的には、離別も死別も同じことが起こっているだけだし、そうであり続ける。
ただし、基本は同じであったうえで、違いを付け加えることはできるし、やっている。たとえば、特に大切な人との別れで「もう二度と会わない」という場合には、動揺もするし特別に「色づけ」をして強調したくなる(悲しんだり重大視したりする)。
離別と死別の違いは、「会わなさ」そのものの違いではなくて、同じ「会わない」に付加される「気持ち」の側の問題であり、それは「程度」の問題でもあるだろう。「会わない」こと自体は、悲しいこともあればそうでないこともあるし、重大な意味を持つこともあればそうでないこともある。付加される悲しさや重大さには程度の差があって、all or nothingではないし、その違いを決めるのは、離別なのか死別なのかではない。
もちろん、当時はそこまではっきりと言葉にして考えていたわけではない。しかし、おおよそこのようなことを感じながら、「離別も死別も同じようなものではないか」と思っていた。だからこそ、「可能性がある/可能性がない」に基づいて、離別と死別の違いを説明しようとする大人の考え方が、受け入れられなかったのだと思う。
現実と可能
しかし、大人になった今の私ならば、「可能性がある/可能性がない」という違いを強調する大人のほうの気持ちも、当時よりはよく分かる。大人たちは、「生と死」の断絶を言いたかったのだろう。生きているということは、色々な可能性があるということに等しく、死んでしまえばその可能性はゼロになってしまう。この差は「程度の問題」などではなく、「all or nothingの問題」であり、「可能性のある/なし」の差は決定的なのだと。
生きていさえすれば、(実際には会わなくとも)会える可能性はあるが、死んでしまったらその可能性そのものが完全に失われてしまう。だから、遠くに引っ越した友だちとは「会えない」とはいっても、その「会えなさ」は完全な不可能性ではない。たとえ、会うことがきわめて難しくて、また実際には会わないのだとしても、その人に会う可能性はどこまでも無くならない。しかし、死亡して会えなくなった人の場合は、そうではない。その人に会う可能性は完全に無くなる。生きていることと死んでいることの違いは、残酷なくらいに決定的であって、「気持ちの持ちよう」ではどうにもならない差なのだ。大人になった私は、子どもだった私に向かって、そう言うかもしれない。
しかし、ほんとうにそうだろうか。大人になった私の中にも、まだあの頃の子どもの私が住んでいて、大人が強調する「決定的な差」に納得できなくて(私は「素直な」子どもではなかったので)、次のように考えるだろう。
「実際には会わない」という現実のところだけで比べていると、離別と死別には違いが付けられないから、大人たちの言うように、現実とは別の「可能性」というのを考えてみることは、悪くないと思う。転校していった同級生には、実際一度も会っていないというのが現実だけど、飛行機に乗れば会いに行くことはできるし、偶然に東京の街角で会う可能性だってある。それはそうだ(可能性ならば、いくらだって「ある」)。
しかし、「離別」の場合に、そうやって「可能性」というものを「いくらでも」持ち出してもいいのだとすると、「死別」の場合だって、同じことにならないだろうか。「死別」の場合だって、可能性を考えてもいいということになれば、いくらでも「死んだ人に会う可能性」は考えられるのではないか。たとえば、死後の世界があって、そこに住んでいる死んだ人に会いにいく(鬼太郎のように!)。そういう「可能性」ならばある。あるいは、死んでしまった人がもう一度生き返って僕に会いに来る。そういう「可能性」ならばある。「会う可能性」は、「死別」の場合もいくらだって「ある」のではないか。
「実際には会わない」という現実のところだけで比べていると、離別と死別には違いが付けられないだけではでなく、(大人たちの言うように)可能性というのを持ち出して比べたとしても、やっぱり違いはなくなるのではないか?「現に会わない」という点で同じであるだけでなく、「(会う)可能性はいくらでもある」という点でも同じになるのではないか?これで、もう一度「離別と死別は同じようなもの」へ戻って来たことになる。
そういう「子どもの私」の異議申し立てに対して、「大人の私」の側は、もう一度考え直すことになる。そして、「大人の私」は「子どもの私」に向かって、次のように言いたくなる。「君は、こんどは可能性というのを広げすぎているのではないか?」と。
以下は、この先でさらに想定できる問答である。
【大人の私】
君は、始めは「実際に会う」という現実へと狭く絞りすぎて考えていたから、離別と死別の違いが見えなくなっていた。だから、実際に会うかどうかだけではなく、会う可能性についても考えてみることを大人は勧めたわけだ。可能性を視野に入れて考えた方が、その違いがはっきりするのではないかというアドバイスをしたことになる。
そうしたら君は、その可能性を取り入れることはしたけれども、こんどは無制限に広げすぎてしまって、そのアドバイスを台無しにしている。君は、「あの世」とか「生き返り」とかの非現実的な可能性まで持ち出して、「飛行機で行けば会える」という現実的な可能性といっしょくたにしたので、何でもあり(どんな可能性だってある)になってしまった。だから再び、離別と死別の違いが付けられなくなってしまったんだ。
「可能性」を考える時には、狭めすぎて「可能性が消えてしまう」のもダメだけれど、逆に広すぎて「何でもあり」もダメだ。そのあいだの適度なところで「可能性」を考えないと、離別と死別の違いをうまく理解できないよ。
【子どもの私】
なんか変だなぁ。
「(可能性を)狭く絞りすぎたり広げすぎたりするから、離別と死別の違いがうまく付けられなくなる」って大人は言うけれども、僕はそもそも「離別と死別の違いはない」と思っている側なのであって、「違いをうまく付けたい(付けよう)」と思っているのは、大人の側だよね。
だから、僕からすると、「可能性の範囲を適度に絞れば、離別と死別の違いが分かる」と言われても、逆じゃないの?と思ってしまう。つまり、「離別と死別の違いが分かるように、可能性の範囲を適度に調整している」ように見えてしまう。それでは、「出来レース」じゃん。始めから「勝ち」(=離別と死別が根本的に違うこと)が決まっていることになる。僕が疑問に思っていたのはその「勝ち」(=離別と死別が根本的に違うこと)についてだったのに・・・。だから、答えてもらっている気がしない。
それに、「可能性の範囲を、絞りすぎず広げすぎず、適度な範囲にする」と大人は言うけど、どうやってその「適度な範囲」を決めているのだろう。先ほど大人は、僕にこう言った。「非現実的な可能性まで持ち出して、現実的な可能性といっしょくたにしている」と。ということは、「あの世」や「生き返り」という可能性と「飛行機で行く」という可能性のあいだに線を引いて区別したいわけだ。「あの世」や「生き返り」という可能性は考えてはダメで、「飛行機で行く」という可能性ならばOK。どうやってダメとOKを区別しているかといえば、「あの世」や「生き返り」は非現実であるけれど、「飛行機で行く」は現実であるというように、「現実であるかどうか」によって区別している。
これも、また変だなぁ。
離別と死別を区別するためには、現実(実際に会わないこと)だけではなくて、可能性まで考えないといけないと大人は言う。しかし、その可能性をうまく使う(=広げすぎて台無しにしない)ためには、現実(実際にできること)に絞って考えなくてはいけないとも大人は言う。なんだか、現実から可能性へ、可能性から現実へと「たらい回し」にされているような気がする。可能性を利用することで、現実に対して違いを付けようとしているのか、それとも、現実を利用することで、可能性に対して違いを付けようとしているのか・・・。まるで、自分で自分の尾っぽに噛みついて輪になっている蛇のようだ。
******
もちろん、「子どもの私」と「大人の私」の想定問答は、これで「終局」にはならない。というよりも、この続きをもっと先のほうまで展開してみるとどうなるかを、本書は追求している。以下に続く各章は、そのような追求の軌跡である。たとえば、第4章の「必然と偶然」を論じる箇所では、私は次のように述べている。
この必然と偶然の間の往来は、「はじめに」で述べた子どもと大人の間でのやり取り(視点の交代)と対応している。離別と死別は「会わない」という現実が起こっているだけだという点で、同じようなものであると考える「子どもの視点」は、実際の現実が全てであり、その現実を必然と考える側(現実の必然性)に対応する。一方、離別と死別の決定的な差を「会う」可能性のある・なしに見ようとする「大人の視点」は、現実を可能性の一部分として位置づけ、現実を偶然と見ようとする側(現実の偶然性)に対応する。そして、偶然の必然化と必然の偶然化という転化は、大人の視点から子どもの視点に転化すること、子どもの視点から大人の視点に転化することに対応する。(**頁)
いずれにしても、このエピソードの中には、本書を通底しているテーマである「現実性/可能性」「ある/ない」「絶対/相対」「生/死」「同じ/違う」「程度の問題/all or nothing」などの問題群が、萌芽的な仕方ではあるが含まれている。
【以下略】
参照